[桜 始 開(さくら はじめて ひらく)]


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 昼に近い朝。
 川沿いにある、シンプルだがモダンな高層マンション。
 その九階の一室。
 女性が洗濯カゴをかかえて、ベランダに出てきた。
 ベージュのVネックセーターに、クリーム色の柔らかそうなスウェットボトム。
 褐色で美しい顔立ち。
 一見して、日本人ではないことが解る。
 眉が濃く、瞳は鳶色。唇の艶やかな赤さが目立った。
 肩まである、緩いウェーブが掛かった黒髪が、ふわりと風になびいた。
 彼女は、空を見上げる。
 日射しがやや強かったのだろう。目を細めてから、街に視線を移した。
「それにしても……九階はさすがに高いな。今まで二階だったしな……式の時、戻った宮殿くらいはあるか」
 流暢な日本語でそう、つぶやいた。

 彼女の名は、クーシャナ・ハルマータ。
 インドに程近い小さな島国、ハルマの第三皇女だった。
 日本に留学中、恋に落ち、先日、ハルマで結婚式を挙げた。いわゆる国際結婚だ。
 これが有名な国なら、大騒ぎになるところだろう。
 だが、日本では誰も知らない小国の話だったので、特にマスコミに騒がれる事もなかった。
 もちろん、ハルマではそれなりに騒ぎにはなっていた。
 しかし、それでも王位継承権のない第三皇女なので、必要以上に騒ぎ立てられる事もなく、粛々と式は執り行われた。

「あれは、静かで良い式だったな……彼は見たこともないほどガチガチで、可笑しかった」
 式のことを思い出したのだろう、薄く笑う。
「姉上の時は、盛大に国中をパレードをしていたが、あれはあまりにも華美に過ぎた。わたしの好みではない」
 まあ、姉上の性格と立場のせいも多分にあるが、とつぶやきながら、ベランダに洗濯カゴを置いた。
 そのまま、奥に入り、ふとんを持ってくる。
 日差しが徐々に、高くなってきていた。

 式の後、彼女たちは、すぐここに引っ越してきた。
 彼女としては同棲していた彼のマンションで、そのまま暮らしても良かった。
 だが、彼の、せっかく新婚なんだから、生活も新しくしようよ、という意見に従った。
 彼と選んだ、2LDKの賃貸マンション。
 家賃のわりには部屋も広く、構成がシンプルで使いやすい。特にベランダの広さがとても気に入っていた。

「さて、干すか」
 彼女は、洗濯カゴから洗濯物を取り出し、まだ新品の、組み立て式物干し台に吊っていく。
 母国の民謡なのか、日本では聞き慣れない旋律の鼻歌混じりで、作業を手早くこなしていった。
 彼女のセーター、シャツ、フリース、デニムパンツ……
 ふと、手を止め、その吊られた洗濯物を眺めた。
「国で着ていたものはないな。あの無闇に豪華な花嫁衣装も置いてきたし」
 そこには、確かに民族衣装に見えるものはなかった。
 彼女は微笑む。
「皆、あの人と選んで、買ったものばかりだ」
 引き続き、鼻で歌いながら、彼のワイシャツ、ズボン、靴下を次々に吊す。
 そして……下着を手に取った。黒のトランクスだ。
 それを広げて、嬉しそうに言った。
「わたしが男性の下着を洗って干すようになるとは、考えもしなかったな」
 優しいまなざしで、トランクスを見つめ続けた。

 夕方。
 彼が帰ってきた。
「ただいまー……あれ、クー? 電気も点けないでどうしたー?」
 ネクタイを緩めながら、廊下を奥に進む。
 リビングの電灯を点けた。
 彼は、ベランダのほうを見て、声を漏らす。
「あ……」
 きれいに畳まれている衣類。
 その中心にある、やはり畳まれた布団の上で、クーシャナが、寝ていた。
 しかも、トランクスを胸に抱きしめている。
 彼は、頭を振って、照れ笑いをした。
「うちのお姫様は、なにやってんだか」
 彼は微笑みながら、そばに行って、膝を突いた。
 彼女の頬に、どこから舞い込んだのか、桜の花びらがあった。
 それを、そっと、つまみ取る。
 何か感じたのか、彼女は、顔を手の甲でこすり、軽く寝返りを打つ。
「んん……」
 腕がぱたりと、彼の膝に当たった。
「はぇ……」
 彼女はぼんやり、目を開ける。
 彼は優しく問いかけた。
「起きた?」
 夢の世界から、返事が来る。
「……しゃぁやどぅ」
 それは、彼女の国の言葉だった。
「たぶん、ですか。まだ、寝ぼけてるじゃん」
 彼女は、はっとして、急に飛び起きた。
「えっ、ごめん! 今、何時だ?」
 彼はにっこりして、花びらをつまんで、見せた。
「気にすんな。まだ時期は早いけど、春眠、暁を覚えずってね」
 彼女は、ちょっと落ち着いて、微笑んだ。
「……ありがとう、ごめんなさい」
 彼は、立ち上がってベランダのほうを向いた。
「それで……とりあえず、その……トランクスだけは、どうにかしてくれないかな」
 彼女は、自分が握りしめているものを広げて見て、慌てた。
「ひゃ、これは、その、はい、畳む、畳む!」
 パタパタと畳んで、他の衣類と一緒に置いた。
 真っ赤になっている彼女を優しく見つめてから、彼はベランダに出た。
「お、今日は、海が見えるな。川沿いに桜もちょっと咲いてるぞ。クーも見てみないか」
 クーシャナは、恥ずかしそうに顔を軽く押さえて、ベランダに出た。
「あ、ほんとだ……海がキラキラしてるな」
 彼女の髪が、まだ少し、肌寒い風に揺れた。
 彼が無言で、その肩を抱き寄せる。
 クーシャナは彼の首のあたりに、頭をちょこんと、乗せた。
「桜始開(さくらはじめてひらく)、か……」
 そんな日本人でもあまり知らない七十二候のひとつを、つぶやく。
「え、なに?」
「春分の第二候で……いや、あなたとずっとこうして、桜や海を、見続けたいなって思ったんだ」
 そう言って、ぎゅっと抱きついた。
 彼は、夕日に照らされている以上に、赤くなった。
 遠くに輝いている水平線は、始まったばかりの穏やかな春に彩られていた。

END


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