暑さと哀しみでぐったりしていると、すぐ窓の下で軽いクラクションが聞こえる。
うっさいなぁ、このまま孤独に妄想の中で死んでやろうと思ってたのに。
「このへんにヤバイ奴でも住み始めたのか?」
ごろごろと窓際まで転がって、頭を上げた。
見ると、なんだか古風な車が止まっている。中から短い金髪の、細長い女が出てきた。
車と比べて見るとかなり背が高い。袖のないオレンジ色のサマーセーターを着ている。下はGパンだ。
一見して外国の女優かと思った。
この距離から見ても、その美貌はハッキリ解った。
女は良く通る涼やかな声で、二階の俺に話しかけた。
「おひさしぶりです。お兄様。海までドライブなどいかがですか?」
この声は……妹の智早(ちはや)だ。
「おまえ、ひさしぶりてか、成長、いつの間に免許、車まで、いや、ここまでけっこう距離もあるだろうに、ええー?」
驚いて、まともな言葉が出ない。
「とりあえず、待ってろ」
俺は半袖のアロハシャツを羽織り、一応、小さいカバンを持つ。中には財布や携帯電話が入っている。
ドアの鍵を閉め、バタバタと階段を降りた。
「お兄様、お元気そうで何よりです」
ゆっくり会釈する。見た目のデカさに似合わない腰の低さ。
「マジでひっさしぶりだなぁ、またデカくなったんじゃねぇーか? まあ、胸は小学生の時から変わらないみたいだけど」
次の瞬間、俺のみぞおちに彼女の拳がめり込む。
「セクハラですよ、お兄様」
このパンチ。そーだった、そーだった。
一瞬で死んだじいさんのとこまで連れて行ってくれる、これ。通称、ヘブンズドア。間違いなく妹だ。
妹……彼女は、連れ子だった。
俺が小学生の頃、再婚した父。そのお相手の、いわゆる新しい母が連れてきた三歳下の子供。それが智早だった。
コイツは出会った時から俺と同じくらいにデカくて、気が強かった。それに成績も良く運動もできた。
だからなのか、いつも俺に言っていた。
“男のくせに”
逆上がりができないだの、走るのが遅いだの、なんだかんだ理由を見付けては冷静にバカにしていた。
俺は悔しくて、でも口でうまく言えなくて、よくケンカした。しかし結局いつも俺は、ヘブンズドアを食らって惨敗。
だが、それを見ていた両親はいつも仲良くしていると思っていたようだ。
共働きだったから、もしかするとあまり子供を見ていなかったのかもしれない、とも思う。
あれは確か、妹が中学に入った日だった。
突然、妹が俺のことをバカにしなくなった。
呼び方も正隆(まさたか)って呼び捨てだったのが、お兄様、に変わった。
あまりにも不自然だった。
一体、妹になにがあったのか?
その時は怖くてとても聞けなかった。
絶対なにか恐ろしいことを企んでいるに違いないと思っていたからだ。
だが彼女は俺になにをするでもなく、その後、ずっとそういうスタイルで暮らした。
もしかして……大人、になったのかな、と思った。それがその時はなんだか少し寂しかった。
やがて、俺が他県の大学に進学してからは家族とはあんまり会わなくなった。
なぜなら、たまに帰るといつも父と母がラブラブモード全開だったのでいたたまれなくなり、早々に退散してたからだ。
妹は高校生で部活や委員会が忙しく、大学生の俺がぶらっと帰ってるような時間とは合わなかった。
それにウチのアパートまで来るとなると、電車を乗り継いでの一日仕事だから、家族がわざわざ来ることもなかった。
車なら大した事はないと聞くのだが、家族は誰も免許を持っていなかった。
「えーと、いつ以来だっけ? 四年前?」
「そうですね。まだ十五でしたから。さ、どうぞ。涼しいですよ」
助手席側のドアを開ける。中から森の香りがする、ひんやりとした空気が流れ出した。
「おお……文明の利器……」
俺はふらふらと誘引剤付きの罠に誘われる、黒い羽虫のように車に乗り込んだ。
妹は颯爽と運転席に乗り込む。
俺はすっかりクーラーの虜になっていた。
「あああ……涼しい……」
彼女は冷房と同じ涼やかな、しかし感情の伴わないような声で指示した。
「シートベルトをしてください」
まるで駅のアナウンスみたいな口調だ。冷静な感じは昔と変わらないな。
「何か、おかしかったですか?」
「あ、いや……クールなとこは変わらないなと思ってさ。えーと、シートベルト、は、これかな」
俺は免許を持っていないから、ほとんど車に乗ったことがない。
そもそも、免許なんて欲しいと思ったことはない。
このへんは、そこまで都会じゃないとはいえ、交通手段だけは発達しているから困らないしな。
……まあ本当は勉強が嫌いなのと、運動神経が無いから取れないんだけど。
シートベルトの場所が解らずもたもたしていると、彼女が動いた。
「お兄様も不器用なところ、変わらないですね」
彼女が俺の前に覆い被さるようにして、シートベルトの先を引き出そうとする。
「あ、おい……」
俺の肩口に触れる、しなやかそうな長い指。
胸はささやかだが、よく引き締まっている身体。
広がる、爽やかな髪の香り。
俺はちょっとドキリとした。
短い金属音がして、俺のシートベルトが装着された。
ぼんやり彼女を見ていると怪訝な顔をする。
「何か、問題でも?」
「あ、い、いや、な、なんでもない」
俺は……いったいなにを慌ててるんだ?
妹は特にその返答を疑問に思うことはなかったのだろう、前に向き直った。
「では、行きましょう」
街中を快調にスムーズに進む。
信号での停止、発進も見事だ。
バスやタクシーと比べても、これほどの腕の持ち主はそうはいないんじゃないか。
俺は感心して話しかけた。
「おまえ、運転上手いんじゃないか? さすがになんでも出来るな」
そのとたん、急ブレーキがかかる。
「うおぁ!」
俺はフロントガラスに飛び出しそうになった。だが、妹の付けてくれたシートベルトのおかげで助かった。
彼女は、表情を変えず謝る。
「ごめんなさい。信号が赤に変わったのに、気付かなかったんです」
笑い混じりで返した。
「今、褒めたの、台無しじゃんよ」
妹はちょっとトーンを落として答えた。
「ごめんなさい」
なんだか彼女の顔が、急に暗くなったように見えた。
え、俺の言ったこと、そんなにショックか?
思わずフォローした。
「あ、いや、気にすんな」
ちらっと俺を見て答える。
「はい」
やや元気を取り戻したようだ。
信号が青に変わり、再び走り出す。
やはり相当、滑らかな走り出しだ。
なんだったんだ、今のは。
やがて車は高速道路に入った。
音楽は適当なFMラジオ。
車窓には、山や田畑が広がってきた。
妹は特に会話を振ってこない。手持ちぶさたと言うか、暇と言うか……
眠い……。
突然、陰鬱な音楽がラジオ以外から聞こえてきた。
これは葬送行進曲?
見ると、ハンドルの横の小物入れで、携帯電話がチカチカと光っている。妹の物だろう。
彼女が無表情に舌打ちをした。
俺がどうこうすることじゃなさそうだ。そう思ったので、そのままにしておいた。
すると、それは延々と鳴り続けた。
妹は業を煮やしたのか、やや乱暴な運転で一番近い休憩所のようなところに入った。
車を止め、電話に出る。
「もう二度と掛けてくるなと言っただろう」
表情も声も冷静だが、強い怒気が籠もっている。怖い。
「何度言えば解るんだ。あなたのことは好きでも何でもない」
男か。まあ、こいつほどの女なら言い寄られても仕方ないな。
兄バカかも知れないが、割と真面目にそう思う。
しばらく、その言い合いを聞き流していた。
俺の出る幕じゃない。
「……それは、脅しか?」
聞き捨てならない言葉が妹の口から飛び出した。
俺は反射的に妹から電話を奪い取る。
「てめぇ! 妹になんかしたら地獄、見せちゃるからなぁっ!」
そのまま、切る。
見も知らない他人にこんなふうに言ったことは今まで一度もない。
膝に置いた携帯電話を持つ手が、震えていた。
妹がその手を、そっと握ってくる。
はっとして彼女を見ると、口を手で抑えながら笑いを我慢しているようだった。
「ちゃるって……」
彼女は肩で笑った。
「いいだろ、ああいうのはガツンと言わなきゃダメなんだ、ガツンと!」
俺は自分の顔が熱くなるのを感じていた。
彼女はひとしきり静かに笑い終えると、涙を拭いた。
「……これで二度目、ですね。わたしを守ってくれたのは」
屈託ない微笑み。
「え……」
そんなこと、あったっけ?
「やはり、もう覚えていませんか」
妹は電話を俺の手から取ると、小物入れに戻す。
ふっと天を仰ぐようにシートにもたれ掛かった。
「あれは、わたしの中学の入学式でした」
彼女は語り始めた。
あの日。
朝から、わたしは何度も制服や持ち物をチェックしてました。
あからさまに神経質になっていたんです。
不安だったのです。
ちょうどその日、両親は仕事があって行けませんでした。
だから当然、お兄様が付いてくると思い、先手を打って拒みました。
「正隆は来なくて良い。あなたのような人が家族だと思われたら、恥ずかしいからな」
酷いことを言ったと思います。
その当時、わたしはずっと不思議に思っていることがありました。
なぜ、わたしはこの情けない義兄につらくあたるのだろう。
その頃、わたしはお兄様よりあらゆる点で優れている、そう思っていました。
でも、それならば本当に馬鹿にするだけで充分だったはずです。
なのに義兄に対しては、それ以外に酷く苛立つ感情がありました。
お兄様はわたしの言葉に怒りもせず、言いました。
「じゃあ、学校まで送る。それくらいさせろよ」
わたしは苛立ちを隠せませんでしたが、それでも少し安心したのか、ただ頷きました。
式が終わって校門に出ると、お兄様が待っていてくれました。
お兄様は帰りも当然、送るからな、とだけ言って、前を歩き出しました。
すぐそこの距離なのに、わたしは、なかなか追いつけませんでした。
義兄は走るのは遅いのに、なぜ、歩くのはわたしより速いのだろう、そう思って付いて行ったのを覚えています。
やがて、交差点に差し掛かったとき。わたしは自分の中の疑問に答えられず、考えながら歩いていました。
お兄様の、危ないから陸橋を渡ろう、という声も聞かずふらふらと赤信号の交差点に出てしまったのです。
そこに、トラックが突進してきました。
わたしがそれに気づいた時には、足がすくんで動けませんでした。
「智早ぁぁぁっ!」
お兄様の怒号とトラックの激しいブレーキングが聞こえた瞬間、わたしには何が起きたのか解りませんでした。
気が付くと、わたしはお兄様の腕の中に抱えられていました。
トラックは軌道を戻すと、そのまま走り去りました。
それを睨んでお兄様は吼えました。
「馬鹿野郎! 妹になんかあったら地獄見せてやるからなぁっ!」
そう、それはちょうど、さっき言ったのと同じような言葉でした。
わたしは、その言葉に感動しました。
ふと気が付くと、お兄様のひじから血が出ていました。
「あ、正隆、怪我してる……」
お兄様は笑って答えました。
「ん、ああ。気にすんな。それより、おまえはどこも怪我ないか」
この人は……自分のことよりわたしのことを心配し、とっさに守ってくれた。
わたしは、と言えば彼より運動能力が高いはずなのに、すくみ上がって全く動けなかった。
義兄をわたしより全てにおいて劣ると考えるのは間違いだ。
そう気づいたとたん、自分の中の疑問に答えが出たのです。
妹はそこまで話すと、俺の目を真っ直ぐ見つめた。
その輝きは真剣そのものだ。
まさか……俺はちょっと聞いてみる。
「そ、それで……?」
少しの間があった。
「それだけです」
思わずコケそうになる。
「って、なんなんだよ! 気になるだろ!」
彼女はただ微笑んで、前を向く。
「では、先を急ぎます」
緩やかに車を発進させた。
高速を降りてしばらく行くと、目の前に海が広がった。
「おおー! 海だ!」
思わず、身を乗り出しそうになる。
砂浜近くにある、ひと気のない駐車場に車を止めた。
「さて、と」
おもむろに妹は着ていたサマーセーターを脱ぎ出した。
俺は慌てた。
「え、おい、ちょっと……」
「何か、問題が?」
彼女の服の下にはカラフルなビキニがあった。
あれ、胸、案外あるじゃん。
って、いやいやいや。
「お兄様も着替えますか」
後ろの座席から、海水浴用品が入った袋を取って俺に渡す。
さすがに用意がいい。
中にはバスタオルやビーチサンダル、それに実家に置いていた海パンが入っていた。
「ちゃんと洗ってありますから大丈夫です。さ、どうぞ」
どうぞって、言われても……。
とか思っているうちに、妹はGパンも器用に脱いだ。
うお! なんてローライズ!
いくら妹とは言え、この狭い中で、この距離で、これは刺激が強すぎるかも知れない。
「どうしました? なんならわたしが脱がしましょうか」
俺のTシャツに手を掛けようとする。
「いや! 自分で着替えるから、いいから!」
俺はまるで中学生のプールの授業みたいに、バスタオルで下半身を隠しながら着替えた。
彼女は少しつまらなさそうに、そのようすを見ていた。
「てか、見るなって!」
「兄妹なんですから、いいじゃないですか」
そりゃあ、もっともだけどさ、ちょっと前にあんなこと言われたら意識するじゃねーか。
俺はなんとか着替え終わった。
砂浜。
ビーチサンダルを履いていなかったら飛び跳ねるくらい、砂が熱い。
そのせいか、それともこの強い紫外線のせいか、人は少ない。
おかげで海はより、きれいだ。
妹は水平線を見つめた。
「風が気持ちいいですね……」
俺はああ、と答え、強い磯の香りを胸いっぱい吸い込む。
しっかし何年ぶりだろう、海なんて……。
「よし!」
俺は、気合を入れた。
「泳ぐか」
「はい!」
妹は珍しくにっこりした。
素直に、きれいだ、と思った。
俺たちはなんだか子供みたいに、海に向かって走り出した。
夕暮れ。
車に戻る。
俺たちは後部座席で互いに背を向けながら、さらにバスタオルで隠しながら、着替えた。
「お兄様になら、見られても良いですよ?」
「あーあーあー! 聞こえなーい!」
全くこの妹は兄をからかうにもほどがある。
二人とも着替え終わって、少しまったりとした時間が流れる。
「楽しかったですね」
「うん。楽しかった。ありがとうな」
「良かったです。誘った甲斐がありました」
しばらく、沈黙。
「……お兄様」
「ん?」
その目を見ると、真っ直ぐに俺を見つめていた。
「今日で、お兄様は卒業です」
意味が解らない。
「どういうこと?」
問い掛けると、俺の目をさらに覗き込んだ。
「正隆さん……」
ずい、とこちらに来る。
「わたしは、あの日から、ずっと……ずっと……」
息が掛かるくらいに顔を寄せた。
「ずっと……」
そのまま、ちょうど俺の股間のあたりに頭を埋めた。
「え、おい、ちょっとそれはまずいって! いくら血が繋がってないって言ってもさ!」
パニックになりながらとりあえず、その頭を抱え上げると。
「すーすー……」
寝てやがる。
全く……子供かよ。
そう思いながらも少し腰を移動して、太ももの上に頭を乗せるようにした。
髪を優しく撫でる。
「俺なんかより、いい男、見つけろよ。それまでは彼氏代わりしてやるからな……」
その寝顔をしばらく見つめていた。
ふいに気が付く。
「このままじゃ帰れねーじゃん!」
俺は妹を起こそうと揺すった。
「んん……正隆、うるさい!」
一瞬、体を起こした彼女は俺のあごにヘブンズドアを光の速さで放った。
俺は彼女の腹の辺に倒れ込んだ。
なんだかとってもヤバイ格好のような気もするが、もう起きる気力がない。
実際、俺も物凄く眠たかった。
妹の腰の向こうにある窓から、ちらっと見えた星々が綺麗だった。
それがその日、最後の記憶となったのだった。
END
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