[胎(はらご)]


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「まぶしい……」
 可奈(かな)は地下鉄の階段を昇り切る手前で、その強い夏の日差しに目を細めた。
 汗でズレた眼鏡を、白く細い人差し指で直す。
「きっと、オゾンホールの拡大のせいだな」
 理知的なつぶやきをこぼした。

 彼女は今どき捜してもいないであろう、優等生の格好をしていた。
 三ヶ月前に入学した高校の、生徒手帳に載っている通りだ。
 肩より少し長い髪をキッチリ真ん中で分け束ねて、お下げにしている。
 服装はもちろん制服。まだ真新しい。セーラー襟に赤いタイをバランス良く結んでいる。
 スカートはひざ丈。靴下も計ったようにきれいに三つに折って、質素な黒の革靴を履いている。
 黒縁の四角く重そうな眼鏡は、紫外線を九十九パーセントカットするという謳い文句が気にいって買ってもらった。

 階段の端に寄って、学校指定のカバンから地図を取り出す。
「えーと、姉さんのマンションは……」
 彼女は姉、陽子(ようこ)の新婚家庭に向かう途中だった。
 可奈は地図を見ながら、昔のことを想い出していた。

 陽子は実家に居たときから、優しく朗らかな性格だった。
 もちろん、可奈が物心付いたときには、陽子がすでにある程度、大人だったという部分もあるだろう。
 だが、それ以上に陽子はいつも明るく、可奈を気遣い、励ましてくれた。
 陽子自身が落ち込んでいる姿など、見たこともなかった。
 陽子もまた、優等生でもあった。ただ勉強ができるというだけではない。
 スポーツも優秀で、特にフェンシングでは県大会で優勝したことがあった。
 あの日、陽子が見せた笑顔。
 それまで可奈には、あまりにも完璧な姉に対して、多少の劣等感があった。
 だがその時の笑顔は、それを払拭するだけの輝きがあった。
 やりたいことを精一杯やって、成し遂げたという清々しいスマイル。
 可奈はそれに憧れて、姉のようになろう、優等生になろうと心に決めた。
 最高で自慢の姉だった。

「ん、このくらいなら歩けるな。バス代ももったいないし、歩こう。姉さん、変わったマンションで教会みたいだって言ってたから、すぐ解るだろうし」
 可奈は地図を畳み、駅前の大きなスクリーンの近くにある自販機に向かう。
「まずは、熱射病対策、と。あんまり甘くない、スポーツドリンクがいいかな」
 スクリーンでは、ニュースが流れていた。キャスターの声が聞こえる。
『次は連続幼児誘拐事件の続報です。先週より続いてる誘拐事件ですが、犯人については未だ、新たな情報もなく……』
 可奈は、それを聞くとはなしに聞いた。
「最近、そんな事件が多いなぁ。誠(まこと)君、大丈夫かな……まあ、姉さんも強いし、康明(やすあき)さんがいるから大丈夫か」
 誠とは、陽子と康明の子供である。可奈からすれば甥にあたる。
 陽子は、大学のフェンシングサークルで知り合った先輩である、康明とすぐに意気投合したという。やがて、ふたりは愛を育んだ。
 康明の卒業後、彼の就職と同時に結婚し、すぐに誠を産んだ。
 彼女にとって学生結婚、出産だったため、親たちは反対したが全くの杞憂だった。
 陽子は家庭も、学業も完璧だった。

 可奈が康明と誠に初めて会ったのは、病院で陽子が落ち着いてからだった。
「誠君も可愛かったし、康明さんも、素敵な男の人だったな。さすがに姉さんが好きになっただけのことはある……わたしにもいつか、そんな人ができるんだろうか……」
 そうつぶやいて、顔をほんの少し赤くした。もしかしたら、ある特定の男子が頭に浮かんだのかも知れない。
 可奈は誰が見ているわけでもないのに、そそくさと自販機から飲み物を取り出し、歩き出した。

 始めは、鼻歌まで飛び出すほど快調だった。
 だが、住宅街に入る頃には、暑さとダラダラと続いた坂道のせいで疲れていた。
 飲み物はもう、すでになくなっていた。
 左手の塀の向こうから、セミの鳴き声が激しく聞こえる。
「……うるさいな……」
 可奈はイライラしたように地図を開いて、少しあたりを見回した。
「えーと……あ、あれか!」
 それは右手方向の、森のようになっている所にそびえ立っていた。不思議な“塔”のある、高層マンション。
 住居部分自体は、特に変わったデザインではなかった。
 だが、その端に付いている“塔”が教会をイメージさせるのだ。
 “塔”は給水塔なのか、エレベータが入っている部分なのか……とにかくそれは、マンションそのものより異様に高く飛び出していた。
 その屋根は八角錐で、すぐ下は十字架のように穿たれていた。中には鐘のようなものまである。
 “塔”は、昼になったばかりの強い陽光を受け、真っ白に輝いている。中の鐘も鈍く赤褐色に光っている。
 そして――その裏側からは漆黒の影が落ちていた。住居部分を全て覆うかのように。
「教会と言うより、墓標みたいだな」
 可奈は思わず、つぶやいた。

 エレベータが三階まで上がって止まる。
 そこから降りようとした可奈は、ふと、横にある非常階段を見た。そこには、ぼんやりしているスーツ姿の男女がいた。男性はなんとなく冴えない感じで、女性のほうは凛々しく長身で眼鏡を掛けている。
 軽く会釈してきびすを返す。
「康明さんみたいな営業の人なのかな。暑いのに大変だな……」
 つぶやきながら、ズラリとドアの並んだ廊下を姉の部屋まで進んだ。

「姉さん、可奈です。約束通り、遊びに来ました」
 玄関ドアの呼び鈴を鳴らす。しばらくすると、笑顔の陽子がドアを開けた。
「いらっしゃい、外、暑かった?」
 陽子は可奈を、招き入れた。
「はい、暑かったです。あ、涼しいですね」
「ふふふ、なぁに、他人行儀ねぇ。いつもの可奈ちゃんじゃないみたいよ?」
 そう言いながらドアを閉め、内側からカギを掛けた。
 可奈はそれを不思議そうに見た。
 陽子はその視線に気が付き、微笑んだ。
「最近、物騒だから……」
「そう、ですね」
 可奈は陽子がそのカギをエプロンの前ポケットに入れるのを、なにげなく見ながら応えた。
「ジュースでも飲む?」
 陽子が廊下を進み、奥のリビングへ導いた。
 廊下の左右には、トイレとバスルームがあった。
「ありがとう、いただきます……姉さん」
「ふふふ、すっかり大人びちゃって」

「ん、おいしい」
 可奈はリビングテーブルで、ジュースを一気に飲み終える。
「おかわりよ、どうぞ」
 陽子が笑いながら、もう一杯コップに入ったジュースを出した。
「ありがとう」
 可奈はすぐさま、それに口を付ける。
 陽子はふと思い立ったように言った。
「あ、誠のおむつ、替えなきゃ」
 可奈はコップから口を離すと、問いかけた。
「そう言えば、誠君は大きくなりました?」
 陽子は幸せそうに答える。
「ふふふ、そりゃあもう……抱き上げるので精一杯よ」
「へぇ、見てみた……い、な?」
 可奈の言葉に陽子は振り向きもせず、別の部屋に行ってしまった。
「聞こえなかったのかな。まあ、いいか」
 可奈は二杯目のジュースを飲み干し、人心地付いた。静かだ。することもない。
 ふとテーブルにある、お茶菓子が目についた。
「食べてもいいかな……」
 それに手を伸ばそうかどうしようか悩んでいると、その先の壁に小さなシミを発見した。
「ん……方向性がある……?」
 眼鏡をくいっと中指で上げて、そのシミに近寄った。
「斜めになってる。これは下から、上に向けて飛び散ったように見えるな」
 彼女の理知的な頭脳が回転を始めた。
 そのシミを下に向かって追っていく。すると、九十度曲がった別の壁に、より大きなシミがあった。
「どう考えても何か大量の液体を拭き取った跡だな……誠君が何か、やんちゃなことをしたのか……それとも……」
 可奈は四つんばいになってその跡を指でなぞる。

「可奈」
 突然の陽子の呼びかけに可奈は、飛び上がるほど驚いた。
「なに、してるの? 赤ちゃんがハイハイするみたいな格好して」
 可奈はしかし平静を装い答えた。
「あ、いや、ちょっとトイレに行こうかと思って」
「ふうん……よく解らないけど、行ってらっしゃい。廊下の右側よ」
 可奈はありがとう、と立ち上がってトイレに向かった。

 トイレの中で用を足す事もなく、さっきのシミについて考察していた。
 扉を背に、つぶやく。
「あれがもし、血液だとするなら……尋常じゃない。姉さんを問いただす必要があるな」
 一応、用を足した振りをして水を流す。
 トイレを出てリビングに戻ろうとしたとき、向かい側の浴室からかすかに何か嫌な匂いがした。
 可奈は少し気になったがそれよりも、姉にさっきのシミについて質問をぶつけようと思い、リビングに向かった。
「姉さん」
 リビングには誰もいなかった。
 しかたがないので、さっき姉が誠のおむつを換えに行った部屋に向かった。

「姉……さん?」
 その部屋の引き戸を開けた可奈は戸惑った。
 姉はにこにこと編み物をしていた。この暑い夏に、それはあまりにも季節外れな光景だった。異常、と言っても良いだろう。
 そばには、真っ赤な毛糸の帽子とマフラーがたくさん編み上がっていた。ほとんどが子供用だが、大人用のものもある。
「何してるの、姉さん」
 陽子は淡々と答えになっていない返答をした。
「うん、でもね、ずっと冷たいのよ」
 可奈は姉の言葉の意味を全く捉える事が出来なかった。
 陽子は、歌うように言葉を続けた。
「誠も、康明さんも、他にもいっぱい……でもみんな冷たいのよ……だからお風呂場でずっと暖めてるんだけど……」
 可奈はさっきの浴室前で嗅いだ匂いを思い出し、吐き気がした。
「姉さん……まさか、あなたは……」
 陽子は編み物を進める手を止め、金属の編み棒を抜いた。
「みんな可愛がろうとしたんだけど……すぐ動かなくなって……冷たくなっちゃうの……だから、ちょっとでも暖かくしないといけないのよ」
 陽子はゆっくり立ち上がった。手には編み棒を持っている。
 可奈は一歩下がった。
「なぜだ、なぜ、そんな事を……どうしてなの! 姉さん!」
 可奈の悲痛な叫びが響く。陽子はさらに笑顔になった。それは狂気の笑いだった。
「ヒャハッ! うるさい子にはお仕置きしなきゃねぇぇぇぇッ!」
 陽子は素早い動作で、詰め寄った。そのまま編み棒で可奈の胸を、フェンシングのように突いた。
「ぐぅッ!」
 可奈はとっさに避けた。だが回避し切れず、それを肩で受けてしまった。編み棒の先は丸いので突き刺さることはないがしかし、それでも相当なダメージはある。胸に当たっていたら肋骨が折れていたかも知れない。
「やめて! やめてよッ! 姉さん!」
 可奈は肩を押えながら、叫ぶ。
 全く聞く耳を持たない陽子は次々と突きを繰り出す。
 幾つかそれをまともに受けて転がるように、廊下へ逃げ出る可奈。
「姉さんッ!」
 陽子はその瞳に異常な輝きをたたえて、迫ってくる。
「いつもいつもいつもいつもっ!! なんで言うこと聞かないのっ!! ぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー泣いてわめいて!! なんでもあたしのせいなのっ?! なにしたって言うのよっ!! わたし、いつだって良い子だったでしょ!! 違う?! しっかり赤ちゃん産んで! 勉強もちゃんとこなして! 何が不満なのよぉぉぉッ!」
 可奈は玄関の扉を開けようと必死でがちゃがちゃ、取っ手を回した。
 しかし、開かない。可奈は姉の不自然な行動を思い出した。
「だから鍵を内側から掛けていたんだ……!」
 陽子は編み棒を逆手に持ち直し、怒鳴った。
「アアアアアッ! 黙らせてやるぅぅぅっ!」
 可奈は玄関ドアを背に、しゃがみ込むような姿勢になった。
 その目には涙と……強い意志があった。
 陽子が叫声と共に、編み棒を鋭く振り下ろす。
 可奈はそれと同時に飛び出した。陽子に体当たりを喰らわせたのだ。
「ぐぁッ!」
 陽子の後頭部が廊下に打ち付けられる、鈍い音がした。
 陽子に馬乗りになった可奈は、ぽろぽろと目から雫をこぼしながらも決して顔を崩さない。
 陽子のエプロンから急いで鍵を見つけ出すと、玄関ドアに向かった。
 ふいに呼び鈴が鳴り、扉の外から女性の声が聞こえた。
「どうしました? 何かありましたか?」
 ドンドンと扉を叩く。
 可奈は叫んだ。
「助けて下さい! 今、開けます! 助けて!」
 ドアを開けると非常階段にいた長身の女性が立っていた。銃に指を沿えている。
「大丈夫か?」
 静かな優しい声で可奈に呼びかける。
 可奈は少しほほを赤らめ答えた。
「はい、大丈夫です」
 柔らかく微笑む女性。
「うむ。強い子だな。わたしたちは刑事だ。安心して良い」
 それだけ言うと部屋の中に目を移し、隣にいた冴えない感じの男に呼びかけた。
「陣内! この子を頼む!」
 陣内と呼ばれた男は案外、機敏に動いて可奈に手を差し出した。
「よし、立てるか。もう大丈夫だ。パトカーまで行こう」
 その笑顔に救われた気がしたのか、可奈は顔を崩して泣き出した。
「え、ど、どうしたんだ? 俺、なんか酷い事でも言ったっけ? な、大丈夫だから、な?」
 しどろもどろになりながら、陣内は可奈を連れて行った。

 女刑事は仰向けに倒れている陽子に、注意深く近づいた。
 その後頭部の下にある床には血が流れて出ている。
「これはしばらくは動かなさそうだな……」
 陽子の顔から目を離さず、ゆっくり、その脇を進んでゆく。
 腕をまたぐ。
 動かない。
 ふいに近くのドアからの嫌な匂いが彼女の鼻をついた。
「うっ……この腐敗臭は……」
 その時突然、陽子が跳ね起きった。
「ひぃやぁぁぁっ!」
 陽子は編み棒を振りかざす。距離は一メートルもない。
 女刑事は素早く冷静にリビングのほうへ退くと、天井に向けて発砲した。
 しかし、そんな威嚇に効果はない。突進してくる陽子。
「やめろ! やめないと次は撃つぞ!」
 女刑事は陽子に狙いを定めた。
 次の瞬間、その前から陽子の姿がかき消えた。
「うぐっ?!」
 女刑事の肩に鈍痛が走った。
「おいたはダメでちょおおおおお」
 背後で陽子が悪魔のように笑う。
 女刑事は前に転がるように飛び退いて、姿勢を安定させた。
 彼女にもはや、ためらいはなかった。陽子の肩口を正確に狙い、撃った。

 だがその時、信じられない事が起きた。
 陽子は弾丸を編み棒で、はね除けたのだ。
「な!?」
 さすがの女刑事も、目を見開く。
「ひゃぁっはっはっはぁぁぁッ!」
 陽子は何かから解放されたように大きく笑う。
 女刑事の前で、きびすを返すとリビングの奥へダッシュした。
「待て! どこへ行く気だ! 逃げられんぞ!」
 女刑事は追った。
 陽子の足は全く止まる気配はなかった。それどころか、さらにベランダに向かって突進してゆく。
「待てぇッ!」
 女刑事の制止など、彼女には意味がないように見えた。
 陽子は最大級に加速し。
 跳んだ。
 大きな音と共にリビングのガラス戸を突き破り、ベランダの向こうへ消える。
 追っていた女刑事はベランダの手すりから身を乗り出すように、下を見下ろした。
 だが、そこにあったものは、植え込みの上で夕暮れの太陽を受けてオレンジ色に光る、ガラスの破片だけだった。
「まさか……ここは三階だぞ……」

 病院の一室。個室だ。
 可奈の寝ているベッドに、陣内が見舞いに来ていた。
「やあ。身体のほう、良くなってるかい」
 可奈は彼に微笑む。
「はい、なんとか。もう少しかかりそうですけど」
 陣内は微笑み返した。
「そうか。ん、まあ、無理しないようにな」
 しばらく沈黙が続く。
 やがて可奈が口を開いた。
「今日はあの女性の刑事さんは……」
「あ、あいつは今日、別の事件があってさ。俺も後から合流するんだ」
 また、沈黙。
 今度は陣内が口を開く。
「ん、じゃ、また来るよ。お大事に」
 帰ろうとする陣内を、可奈は呼び止めた。
「あ、あの!」
「ん?」
「姉の起こした事、聞かせて貰っても……良いですか」
 陣内は頭を掻き少し、困った顔をした。
 だが、腹を据えたのか、近くのパイプ椅子を引き寄せ座った。
「そうだな……」
 刑事はとつとつと話し出した。

 陽子が風呂場で誤って、誠を溺れさせてしまった事。
 それによって夫に毎日、責められていた事。
 耐えかねた陽子の精神は崩壊し、ついには夫を殺害した事。
 さらに子供を求めて、近所の子供達を誘拐し、監禁、殺害した事……。

 可奈は今にも泣きそうだったが我慢した。
「姉さん……なぜ……誰にも言わなかったの……なぜ……」
 陣内は鼻の頭を掻いた。
「ごめんな」
 可奈は無理に微笑んだ。
「いえ、刑事さんが謝る事じゃありません……こちらこそすみません、わたしの姉が……」
 重苦しい沈黙が明るいはずの病室を暗く覆った。
 ふいにドアが開いて、ナースが現れた。手にはカルテを挟むボードと体温計を持っている。
 陣内は少しほっとした顔で立ち上がった。
「じゃあ、また来るよ」
 可奈に微笑みかける。
「はい。また」
 刑事は、看護士に軽く会釈をして、出て行った。

 可奈のそばに看護士が立つ。ボードのせいで、寝ている可奈からは顔が見えない。
 不思議そうに可奈は問う。
「また、検温ですか。さっきやりましたよ?」
 すると看護士は、そのボードと体温計を投げ捨てた。
「えっ」
 可奈は驚いてその顔を見上げた。
「こんにちは、赤ちゃん」
 陽子だった。
「いやぁぁぁ――ッ!」

end


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