[水の器]


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 雨。
 それもほとんど霧のような、雨。
 遠くの景色は霞み、空の中に消えている。
 俺はあの日バス停で、そのぼんやりした世界を眺めていた。
 同じようにぼんやりと、突っ立って。

――

 寒かった。湿った空気のせいで冷えていたようだ。
 その寒さを紛らわそうと、ディパックから文庫本を出して、読んでみた。
 だが軽い内容にも関わらず、全く頭に入らない。
 道路を背にして、溜息と共に支柱に寄りかかる。
 しばらくの間、寒さのせいだけではない、苛立ちに目を閉じる。
 また溜息を吐いて頭を上げたとき、目に映ったもの。
 それは公園のあじさいだった。
「もうそんな季節か」

 目の前の公園。その向こうにはマンションがあった。
 俺の元彼女である知花(ちか)が住んでいる。
 知花は名前の通り、花のような女の子だ。
 可憐で優しく、いつもニコニコしていて。
 華奢でか弱かった。
 そう、それを知っていたのに、いや、だからこそなのか……
 俺はあいつを……あいつを……。
「知花……」
 俺はどうすればいいのか、解らない怒りと悲しみを振り払おうとした。
「お前が昔、教えてくれたな。あじさいの学名……なんだっけな……」
「ハイドランジアだ」
 突然、真横でやや高い少女の声がした。
「うおっ?! いつの間に!」
 その抑揚の少ない冷静な響きと、男みたいな口調は聞き慣れたものだった。
 知花の妹、菊乃(きくの)だ。
「相変わらず大きくて鈍いな。流也(りゅうや)さんは」
 そう言う彼女は小学生かと思うような身の丈だった。
 かろうじて高校の制服が十七歳だ、と主張している。
 着こなしはさすがに今時の子らしい。スカートはかなり短い。
 でも、それ以外は野暮ったいと言ってもいいだろう。

 その髪は肩に届くかどうかで、真っ直ぐ。色は本当に黒い。濡れ鴉色だ。
 カチューシャで前髪を上げている。
 特徴的な眼鏡。レンズの下にだけ、赤いフレームがある。

 そのレンズの間を軽く曲げた人差し指で、く、と上げて。
 切れ長の目で、射るように俺を見上げる。
 そのまなざしには感情が見えない。
 そういう子だとは解って居ても俺は、その態度に少し腹が立った。
 彼女は続ける。
「情けない。あなたがここに居ると言うことは、つまり、姉さんに会いたかったからだろう」
 図星だった。本来なら俺はここに用はない。
 ここは山の中腹で、このあたり一帯にはバス以外の公共交通機関はない。
 知花がもし出掛けるならいつも通り、このバス停を使うだろうと思って待っていたのだ。
 菊乃は軽く溜息を吐いた。
「もう、とっくに別れたのに……まるでストーカーだな」
 俺はその言葉にカッとなる。
「てめぇ……!」
 彼女は全く動じることもなく、いや、逆に挑み掛かるような視線を向けた。
「そう言って、姉さんを、傷つけたのか」
 冷静、と言うよりも冷徹な声の響き。
 俺は動揺した。
「っせぇよ!」
 彼女はさらに俺を問い詰める。
 まるで鋭いナイフを突きつけるように。
「姉さんを、殴ったんだろう」
 俺は思わず、後ずさった。
 そこに、また一歩、彼女が近づく。
「いわゆるデートDVだな」
 俺は自分の息が荒くなるのを感じた。
「黙れ!」
 身体が怒りで震え出す。
 彼女は手の届くところまで来た。
「脆弱な男だな……」
「黙れッ!!」
 菊乃は薄く……鼻で笑った。
「弱虫」
 爆発。
 ダムが崩壊するように怒りが一瞬で、俺の脳内を埋め尽くす。
 くそ!
 なんでだ!
 なんでみんな俺をバカにするんだ!
 なんで俺の言うことが聞けないんだ!!
「黙れぇぇぇッ!!」
 俺の拳が彼女を襲った。
 でも、確実に当たるはずの拳は空を切った。
 俺はバランスを失った。
「激流、ってところだな」
 菊乃がいつの間にか、俺の真横にいた。
 ヤバい! やられる!
 本能が叫ぶ。
 でも彼女は俺の手首を取り、俺の腰を軽く掌で押しただけだった。
 すると、くるりと回って座席にすとん、と座ることになった。
 まるで操り人形だ。
 菊乃は静かに、言い聞かせる。
「まず、深呼吸しろ」
 頭に来ている俺は、立ち上がりそうになりながら叫んだ。
「指図すんな……?!」
 菊乃は人差し指を立て、俺の唇に付くくらい、腕を伸ばした。
「良いから」
 先ほどの凍るような声とは違う、優しげな響きに座席に戻る。
 とりあえず従う事にした。
「すー、はー……」
 その間に彼女は横に座る。短いスカートが、ひらりとした。
 前を見たまま、ひとことだけ言う。
「落ち着くだろう」
 でも俺は、まだムカついていた。
 この衝動が、知花を、そして今、菊乃を傷つけようとしたにも関わらず、いつも抑えられなかった。

 俺が凶暴な性格を自覚した一番古い記憶は、五歳の頃だ。
 その時、友達だったヤツの腕に噛み付いた。
 俺のオモチャを悪戯で取り上げたからだ。
 その時は彼の親が居てなんとかなったが、もう少しで肉を食い千切るところだった。

 それから親は、とにかく俺に甘くなった。
 なんでも言うことを聞いてくれた。
 それが、より俺の性格を歪めたのだろう。
 俺は身体が大きくなるに従い、親も先生も、男であれ、女であれ、とにかく気に入らないヤツは傷つけた。
 殺しこそしていないが、病院送りはざらだった。
 しかも、身勝手な俺はそのことに激しく後悔するんだ。
 本当は誰も傷つけたくなんかない。でも頭に血が上るとダメなんだ、怒りで頭が真っ白になるんだ。
 いつも深夜の街を徘徊しては、その暗闇の中で自分自身を傷つけた。何度も死のうとした。
 でも……結局、自分が可愛いんだ。本気じゃないんだ。死ねない。
 俺はすでに地獄に堕ちてるのかも知れない、と自分を呪った。

 菊乃は何も言わない。
 俺はその涼しげな横顔を、見た。
 ムカつく。ぶん殴ってやりたい。
 俺は拳を握りしめた。
 すると、彼女は、ふいに俺の目を覗き込んだ。
「あじさいの花言葉を、姉さんに聞いてはいないか?」
 あじさいの花言葉……?
 聞いてない……
 ……
 いや。待て。
 覚えてる。
 そうだ、思い出した。
「忍耐強い愛……」
 彼女はそれを聞いて微笑んだ。
「そう言うことだ」
 俺には何のことか解らなかった。
「これから先、もう姉さんが、あなたの元に戻ることはないだろう」
 その言葉に、また、くすぶっていた怒りに火がつく。
「てめぇ……」
 彼女はより大きな声で告げた。
「だが!」
 立ち上がり、俺の手を取った。
「だが、わたしは忍耐強く流也さんを、あなたを、愛していく自信がある」
「えっ」
 俺が驚いて見上げると、俺の手をその身体に似合わない、ふくよかな胸に押しつけて握った。
「必ず、あなたを受け止めてみせよう」
 手を放すと、今度は俺の頭を天使の翼のように優しく包み込んだ。
 俺はなんだか解らないまま……頭を預けた。
 温かい。
 柔らかい。
「う、ううう……」
 嗚咽した。
 身体の中から熱い涙が止めどなく流れ出た。
 赤ちゃんのように泣いた。
 号泣だった。

「あなたは、水だ。高圧を掛けられて、人をも殺すくらい激しい勢いの水」
 頭を撫でられる。
「水は、形がない。器によって、その形はどうにでも変わる」
 俺の頭を、そっとあじさいのほうへ向ける。
「ハイドランジアの意味を知っているか?」
「……意味?」
 それは知花にも聞いてない。
 ふいに菊乃は俺の頭を上げさせる。
 俺の肩に手を掛け、少し前にかがんだ。
 ちょうど目の高さが同じになる。
 その瞳をやや細めた。
「“水の器”だ。ギリシア語でね」
 彼女のまなざしには、慈愛に満ちた光が輝いていた。
「わたしは、あなたのハイドランジアになろう」
 そう言って、俺の額にキスをした。

 周りが明るくなった。
 雨はいつの間にか、上がっていた。
 唇を離すと、微笑んだ。
 日射しが彼女の美しい肌に反射する。
「でも、わたしは姉さんと違って厳しいからな。覚悟しておいてくれ」
 その瞳には、本気の光が輝いていた。
 初夏のきらめきだ、そう思った。

――

 あれから、俺は誰も傷つけることはなくなった。
 俺自身も含めて。
 彼女は油絵を教えてくれた。
 最初はそんなもの描けないとだだをこねたが、彼女は忍耐強く、時には厳しく、俺に指導してくれた。
 まるでヘレンケラーのサリバン先生のように。
 これが“愛されている”と言うことなんだ、と解った。

 今、彼女は芸術大学の助教授だ。
 俺に絵を教えながら、さらに受験勉強をして、おまけに大学に入ってからも専門の勉強をしていたのだ。
 その小さな身体に、どれほどのパワーを秘めているのか。
 全く恐れ入る。
 彼女には勝てないな、と思う。
 俺はそんな彼女のおかげで、なんとか食える程度の画家になった。

「ただいま」
 それほど大きくない部屋に、彼女の声が明るく響く。
「お帰り」
 俺は筆を置いて、彼女に微笑みかけた。
 彼女は上着を脱ぎながら、俺の側に来る。
 俺のひざにその小さな身体をちょこんと乗せて、絵を覗き込んだ。
「あじさいか……」
「うん。あの日を思い出してたんだ」
「ふふ……良い子だ」
 つい、とあごを上げ、俺のほほにキスをした。
 俺は少し照れながら、彼女の左手を、そっと握る。 
 俺たちの左薬指にはリングが光っていた。

 END


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