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寒かった。湿った空気のせいで冷えていたようだ。
その寒さを紛らわそうと、ディパックから文庫本を出して、読んでみた。
だが軽い内容にも関わらず、全く頭に入らない。
道路を背にして、溜息と共に支柱に寄りかかる。
しばらくの間、寒さのせいだけではない、苛立ちに目を閉じる。
また溜息を吐いて頭を上げたとき、目に映ったもの。
それは公園のあじさいだった。
「もうそんな季節か」
目の前の公園。その向こうにはマンションがあった。
俺の元彼女である知花(ちか)が住んでいる。
知花は名前の通り、花のような女の子だ。
可憐で優しく、いつもニコニコしていて。
華奢でか弱かった。
そう、それを知っていたのに、いや、だからこそなのか……
俺はあいつを……あいつを……。
「知花……」
俺はどうすればいいのか、解らない怒りと悲しみを振り払おうとした。
「お前が昔、教えてくれたな。あじさいの学名……なんだっけな……」
「ハイドランジアだ」
突然、真横でやや高い少女の声がした。
「うおっ?! いつの間に!」
その抑揚の少ない冷静な響きと、男みたいな口調は聞き慣れたものだった。
知花の妹、菊乃(きくの)だ。
「相変わらず大きくて鈍いな。流也(りゅうや)さんは」
そう言う彼女は小学生かと思うような身の丈だった。
かろうじて高校の制服が十七歳だ、と主張している。
着こなしはさすがに今時の子らしい。スカートはかなり短い。
でも、それ以外は野暮ったいと言ってもいいだろう。
その髪は肩に届くかどうかで、真っ直ぐ。色は本当に黒い。濡れ鴉色だ。
カチューシャで前髪を上げている。
特徴的な眼鏡。レンズの下にだけ、赤いフレームがある。
そのレンズの間を軽く曲げた人差し指で、く、と上げて。
切れ長の目で、射るように俺を見上げる。
そのまなざしには感情が見えない。
そういう子だとは解って居ても俺は、その態度に少し腹が立った。
彼女は続ける。
「情けない。あなたがここに居ると言うことは、つまり、姉さんに会いたかったからだろう」
図星だった。本来なら俺はここに用はない。
ここは山の中腹で、このあたり一帯にはバス以外の公共交通機関はない。
知花がもし出掛けるならいつも通り、このバス停を使うだろうと思って待っていたのだ。
菊乃は軽く溜息を吐いた。
「もう、とっくに別れたのに……まるでストーカーだな」
俺はその言葉にカッとなる。
「てめぇ……!」
彼女は全く動じることもなく、いや、逆に挑み掛かるような視線を向けた。
「そう言って、姉さんを、傷つけたのか」
冷静、と言うよりも冷徹な声の響き。
俺は動揺した。
「っせぇよ!」
彼女はさらに俺を問い詰める。
まるで鋭いナイフを突きつけるように。
「姉さんを、殴ったんだろう」
俺は思わず、後ずさった。
そこに、また一歩、彼女が近づく。
「いわゆるデートDVだな」
俺は自分の息が荒くなるのを感じた。
「黙れ!」
身体が怒りで震え出す。
彼女は手の届くところまで来た。
「脆弱な男だな……」
「黙れッ!!」
菊乃は薄く……鼻で笑った。
「弱虫」
爆発。
ダムが崩壊するように怒りが一瞬で、俺の脳内を埋め尽くす。
くそ!
なんでだ!
なんでみんな俺をバカにするんだ!
なんで俺の言うことが聞けないんだ!!
「黙れぇぇぇッ!!」
俺の拳が彼女を襲った。
でも、確実に当たるはずの拳は空を切った。
俺はバランスを失った。
「激流、ってところだな」
菊乃がいつの間にか、俺の真横にいた。
ヤバい! やられる!
本能が叫ぶ。
でも彼女は俺の手首を取り、俺の腰を軽く掌で押しただけだった。
すると、くるりと回って座席にすとん、と座ることになった。
まるで操り人形だ。
菊乃は静かに、言い聞かせる。
「まず、深呼吸しろ」
頭に来ている俺は、立ち上がりそうになりながら叫んだ。
「指図すんな……?!」
菊乃は人差し指を立て、俺の唇に付くくらい、腕を伸ばした。
「良いから」
先ほどの凍るような声とは違う、優しげな響きに座席に戻る。
とりあえず従う事にした。
「すー、はー……」
その間に彼女は横に座る。短いスカートが、ひらりとした。
前を見たまま、ひとことだけ言う。
「落ち着くだろう」
でも俺は、まだムカついていた。
この衝動が、知花を、そして今、菊乃を傷つけようとしたにも関わらず、いつも抑えられなかった。
俺が凶暴な性格を自覚した一番古い記憶は、五歳の頃だ。
その時、友達だったヤツの腕に噛み付いた。
俺のオモチャを悪戯で取り上げたからだ。
その時は彼の親が居てなんとかなったが、もう少しで肉を食い千切るところだった。
それから親は、とにかく俺に甘くなった。
なんでも言うことを聞いてくれた。
それが、より俺の性格を歪めたのだろう。
俺は身体が大きくなるに従い、親も先生も、男であれ、女であれ、とにかく気に入らないヤツは傷つけた。
殺しこそしていないが、病院送りはざらだった。
しかも、身勝手な俺はそのことに激しく後悔するんだ。
本当は誰も傷つけたくなんかない。でも頭に血が上るとダメなんだ、怒りで頭が真っ白になるんだ。
いつも深夜の街を徘徊しては、その暗闇の中で自分自身を傷つけた。何度も死のうとした。
でも……結局、自分が可愛いんだ。本気じゃないんだ。死ねない。
俺はすでに地獄に堕ちてるのかも知れない、と自分を呪った。
菊乃は何も言わない。
俺はその涼しげな横顔を、見た。
ムカつく。ぶん殴ってやりたい。
俺は拳を握りしめた。
すると、彼女は、ふいに俺の目を覗き込んだ。
「あじさいの花言葉を、姉さんに聞いてはいないか?」
あじさいの花言葉……?
聞いてない……
……
いや。待て。
覚えてる。
そうだ、思い出した。
「忍耐強い愛……」
彼女はそれを聞いて微笑んだ。
「そう言うことだ」
俺には何のことか解らなかった。
「これから先、もう姉さんが、あなたの元に戻ることはないだろう」
その言葉に、また、くすぶっていた怒りに火がつく。
「てめぇ……」
彼女はより大きな声で告げた。
「だが!」
立ち上がり、俺の手を取った。
「だが、わたしは忍耐強く流也さんを、あなたを、愛していく自信がある」
「えっ」
俺が驚いて見上げると、俺の手をその身体に似合わない、ふくよかな胸に押しつけて握った。
「必ず、あなたを受け止めてみせよう」
手を放すと、今度は俺の頭を天使の翼のように優しく包み込んだ。
俺はなんだか解らないまま……頭を預けた。
温かい。
柔らかい。
「う、ううう……」
嗚咽した。
身体の中から熱い涙が止めどなく流れ出た。
赤ちゃんのように泣いた。
号泣だった。
「あなたは、水だ。高圧を掛けられて、人をも殺すくらい激しい勢いの水」
頭を撫でられる。
「水は、形がない。器によって、その形はどうにでも変わる」
俺の頭を、そっとあじさいのほうへ向ける。
「ハイドランジアの意味を知っているか?」
「……意味?」
それは知花にも聞いてない。
ふいに菊乃は俺の頭を上げさせる。
俺の肩に手を掛け、少し前にかがんだ。
ちょうど目の高さが同じになる。
その瞳をやや細めた。
「“水の器”だ。ギリシア語でね」
彼女のまなざしには、慈愛に満ちた光が輝いていた。
「わたしは、あなたのハイドランジアになろう」
そう言って、俺の額にキスをした。
周りが明るくなった。
雨はいつの間にか、上がっていた。
唇を離すと、微笑んだ。
日射しが彼女の美しい肌に反射する。
「でも、わたしは姉さんと違って厳しいからな。覚悟しておいてくれ」
その瞳には、本気の光が輝いていた。
初夏のきらめきだ、そう思った。
――
あれから、俺は誰も傷つけることはなくなった。
俺自身も含めて。
彼女は油絵を教えてくれた。
最初はそんなもの描けないとだだをこねたが、彼女は忍耐強く、時には厳しく、俺に指導してくれた。
まるでヘレンケラーのサリバン先生のように。
これが“愛されている”と言うことなんだ、と解った。
今、彼女は芸術大学の助教授だ。
俺に絵を教えながら、さらに受験勉強をして、おまけに大学に入ってからも専門の勉強をしていたのだ。
その小さな身体に、どれほどのパワーを秘めているのか。
全く恐れ入る。
彼女には勝てないな、と思う。
俺はそんな彼女のおかげで、なんとか食える程度の画家になった。
「ただいま」
それほど大きくない部屋に、彼女の声が明るく響く。
「お帰り」
俺は筆を置いて、彼女に微笑みかけた。
彼女は上着を脱ぎながら、俺の側に来る。
俺のひざにその小さな身体をちょこんと乗せて、絵を覗き込んだ。
「あじさいか……」
「うん。あの日を思い出してたんだ」
「ふふ……良い子だ」
つい、とあごを上げ、俺のほほにキスをした。
俺は少し照れながら、彼女の左手を、そっと握る。
俺たちの左薬指にはリングが光っていた。
END
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