「ただいまー」
俺が家に帰ったとき、俺の嫁さん、久宇(くう)がシチューを温めていた。
「お帰り。……ん? どうした、暗い顔をして」
よし、いい質問だ。
俺はその問いに、冗談で返そうと思って帰ってきていた。
ちょうど、会社でちょっとしたネタができていたからだ。
わざと少し沈んだ調子で答える。
「壊れたんだ……」
彼女はシチューをゆっくりかき混ぜながら、もう一度、優しく聞いた。
「なにが?」
俺は心の中でどういう反応をするかな、と悪戯をする子供のように思っていた。
そして、ひとことだけ言った。
「……あい」
久宇の手が止まった。
「解った」
それだけ言うと火を止め、エプロンを取る。
キッチンから素早くリビングを通って自室に行き、戻ってきた。
「いつかこんな日が来るかも知れない。そう思っていた。これに、名前を書いて判を押せば、それで、いい」
薄い紙切れを突き出す。
「えっ、これは……」
離婚届け?
驚いて彼女を見ると、小刻みに震えながら、それを見つめていた。
「ああ。いつもわたしみたいな頑固で融通の利かない、面白くもない女なんか、キミには釣り合わないと思っていたんだ」
一瞬、息を詰めてすぐ続けた。
「キミのように優しく聡明で、いざとなったら強く頼りになる男性が、わたしの夫なんてあり得なかったんだ」
今にも泣きそうな目。俺は慌てた。
「ちょっと待て」
彼女は踵を返し、自室に向かった。
「いやもういいんだ、良い夢を見させて貰ったよ。ありがとう。荷物を片づけてくる」
俺は彼女の肩を掴んだ。
「だから話を聞け!」
彼女は俺の手を振り払ったが、バランスを崩した。
リビングの床に倒れ込む。
俺は駆け寄った。
「おい、大丈夫か」
だが、今度も俺の手を払った。
「やめてくれ!」
床に顔を伏せて、くぐもった泣き声を出す。
「……うう、これ以上、優しくしないで、く、れ……わたしを、苦しませないで……もう、解ったから……もう」
俺は叫んだ。
「単に会社のキーボードが壊れて“I”が打てなくなっただけなんだよ!」
何とも言えない、間。
やがて久宇は涙を手で拭い、口を開いた。
「……冗談を理解できなくて、すまなかった」
俺は反省した。
彼女はいつも鋭く、論理的で合理的な人間なのに、俺のことになると全くそれが働かなくなる。
それを解っていたはずなのについ、つまんない事を言ってしまった。
「いや、俺のほうこそヘタな冗談言って、ごめん」
久宇はごろんと仰向けになった。目が、顔が、赤い。
「わたしは、怒った」
俺に向けたそのまなざしはマジでちょっと怖い。だが、俺も男だ、覚悟する。
「……お、おう」
彼女は俺に手を伸ばし、手のひらを頬の位置に当てた。
「罰を与える」
殴られる。そう思った。
「お、おう!」
歯をかみしめた。
……だが、彼女の手は俺の頬を優しく撫でた。
「言葉で、身体で、ハッキリ刻み込んでくれ。キミの気持ちを」
次の瞬間、彼女は両手で俺を思いきり引き寄せた。
「待て、シチューの火を止めてから、あ、おい、う」
俺の耳に息が当たる距離で囁いた。
「この期に及んで、まだ冗談か? 火を止めたのは見ただろう」
ごめんなさい、そうですね、見ました。でも、やっぱり抗いたくなる。
だって……
「えー、そうだっけー……って、うあ!」
絶対、明日は会社休まないといけなくなるんだもんなぁ……。
「ただいま……」
「お帰り。……ん? どうした、暗い顔をして」
「壊れたんだ」
「なにが?」
「会社で、あい、が」
「……つまり、不倫をしていたと言う事か?」
「えっ?」
「その、あいとか言う女に相談に乗って欲しいなどと迫られて優しいキミはついつい乗った。
ところが、それはその女の手口だった。キミはその優しさから助言をしていたら、いつの間にか情が移った。
そして一夜だけの間違いを犯したんだ! しかし、わたしという妻がいるのを苦に思い、その女に別れを告げた。
すると女は壊れたようになってしまった……ということだろう?」
「……すごい妄想力だな。びっくりだ」
「この期に及んで言い訳をするのか」
「いや、単に会社のキーボードが壊れて“I”が打てなくなっただけなんだけど」
「……」
「……」
「今日は君の好きなシチューだぞ」
「おい!」
END
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||