玄関ロビーの出入り口に着くと、彼の妻がちょうど自転車置き場へ向かうところだった。
だが、その姿と動きは、まるでゾンビだった。
彼の妻は、誰が見ても格好良い女である。
背も高く、美貌を持ち、頭も切れる。
誰に対しても臆することなく、真っ当で忌憚のない意見を言う。
もちろん場の空気を読んでの事だから、出世もする。
彼女は異例の早さで昇進した。
入社三年で、もう課長である。
そんな彼女が、今。
彼の目の前でボロボロになっている。
全身びしょ濡れで泥だらけ。黒いスーツも見る影を失っていた。靴のヒールも折れていた。
両ひざと、あごに、かすり傷を負っている。
眼鏡も傾いで、レンズには磨りガラスのように擦った傷がある。
乗っていた自転車は、かごが激しく歪み、チェーンも外れていた。
彼は呆然と見ていたが、我に返り声を掛けた。
「おい! どうした?!」
愚問である。見たままの状況に違いない。
彼女はゆっくり振り返り、彼の顔を見ると、泣きそうな薄い笑いを浮かべる。
「とりあえず、自転車、置いてくるから……」
それだけ言ってまた自転車置き場に向かおうとする。彼は急いで横に行き、その自転車を奪った。
「俺がやるから、待ってろ」
豪雨の音が、ひと気のない自転車置き場に響き渡る。
自転車置き場とロビーを繋ぐ出入り口で、虚ろに彼女は立っている。
彼は自転車を置こうとして、つぶやいた。
「ん……ブレーキが切れてるのか」
ブレーキを握り締めても、タイヤはそのまま回る。
「鍵は……無くても盗られないか」
半ば放置するように、急いで彼女の元に戻る。
彼女はそれを見ると、顔を上げ、よろよろと彼に近づこうとした。
だが、ヒールのない靴と濡れた床のせいで、転びそうになる。
「あ、おい!」
彼がすぐさま走って行き、しっかりと支える。
彼女はその太い二の腕に額を付けて、つぶやいた。
「甘えても……いい?」
彼は顔を赤くした。だが、決意するように答えた。
「もちろんだよ」
彼女が糸の切れた繰り人形のように、全身の力を抜く。
彼は無言で彼女を抱き上げた。お姫様だっこだ。
彼女は震えていた。
「もう、大丈夫だからな。部屋に帰ろう」
ふたりはそのままロビーに入った。
部屋に戻ると彼はその状態で靴を脱がせ、それを玄関の適当な場所に置く。
さらにそのまま、彼女を風呂場の脱衣所に連れて行った。
「ストッキングを脱いで、待ってて」
優しく下ろされた彼女は、ロボットのように言われたまま、ストッキングを脱ぐ。
次にすることが思いつかないのか、壁に背を預けて感情の見えない目で、ぼんやりと立ち尽くした。
すぐ彼が消毒薬と絆創膏を持ってきた。
絆創膏は防水性の高い、人工皮膚のような最新式のものだった。
怪我のあるひざとあごにテキパキと処置をした。
「ん、これでいい。とにかく、話は後だ。今は、ゆっくり風呂に入って身体を温めてよ。おまえの好きな熱めのお湯だよ」
屈託無く、彼女に笑いかける。
「じゃあ、俺、晩飯の続き、やるよ。旨いカレー作ってるからさ」
立ち去ろうとした彼のエプロンのすそを、不意に彼女は引っ張る。
彼が立ち止まって振り返った。
「ん?」
彼女らしい率直な言葉が飛び出した。
「一緒に、入って欲しい」
彼は真っ赤になって慌てた。
「いや、えと、ふたりで入るには俺、デカイし、狭いかなーと思うし、今までそんな事、一度も言わなかったじゃな……」
彼女の顔を見ると、上目遣いで懇願しているように見えた。
「……そうか、甘えてもいいって答えたの、俺だもんな。解ったよ。入る」
彼女は子供のように微笑んで、さらにむちゃを言う。
「じゃあ、脱がせて欲しい」
彼の息が一瞬止まった。しかし、これ以上抵抗してもムダだとあきらめたのか、軽く受け答えた。
「……はいはい、お嬢様」
彼は彼女の目の前にひざを突いて、水が滴る泥だらけのスーツを脱がす。そのそでは、ひじから手首にかけてほつれていた。
濡れているブラウスのボタンを震える手で、ひとつひとつ、外す。
たわわに実った白い桃が現れた。淡いブルーのブラに覆われている。
雨はそこにまで浸み込んでいたのだろう、彼女のピンクチェリーが透けていた。
「クールにクレバーにクールにクレバーに……」
彼は興奮を抑える為、そんな言葉を念仏のようにつぶやきながら、ブラウスのすそをスカートから引き出す。
次に腕をとり、ぐっしょり濡れたそでのボタンを外した。
彼女は神妙な面持ちで、されるがままになっていた。
だが、水分で皮膚に貼り付いていたそでを腕から抜いたとき、彼女が声を上げた。
「痛……」
腕を見ると、手首からひじまでが真っ赤になっていた。
彼は今までの興奮が消え去ったかのように、それを冷静に観察した。
「打ち身になってるな……お湯が浸みるかもな。後で冷やそう」
彼女は何を思ったのか、急にその腕を彼の頭に絡めて、抱き寄せた。
彼女の柔らかい胸が、彼の顔で変形する。
「ぶほ!」
そのまま彼に、促す。
「次はスカート」
彼は解放されると、ちょっとヤケ気味で彼女のスカートに手を掛けた。
スカートは勢いよく床に落ち、水音を立てた。
ブラとおそろいの淡いブルーのショーツが、滑らかな曲線を描いて、彼女の大事な部分を包み込んでいた。
それは雨に濡れたせいで、その秘部を覆う黒い芝生がハッキリ見て取れた。
彼はそれから目線を外し、彼女の足元を見た。
すると左足の外側にあるくるぶしにも、かすり傷を発見した。
「ここもか……ちょっと足上げて」
彼女の足を、自分の立てているひざに乗せた。
まだ、そこにあった消毒と絆創膏を取り、すぐさま処置する。
「うん、これで……」
彼は彼女を見上げて、息を飲んだ。
濡れそぼった下着姿で、足をやや開きながら上げている彼女。
ひどくエロティックな光景だ。
彼はまた紅潮し、目を逸らした。
「こ、これ以上は、自分で脱いでくれよ、頼む」
彼女は彼のひざから足を下ろし、頭を自分の方にゆっくり向けた。
額にキスをする。
「夫婦なのに、良いじゃない」
彼は立ち上がりながら答えた。
「恥ずかしいものは、恥ずかしいんだよ!」
不意に彼女が、彼の巨躯に抱きつく。
「おわ! 冷たい!」
彼女は目を瞑った。
「あなたは熱いな……」
彼女はさらに抱きつく。身体の前面が全て、彼にくっつくように。
「その熱い指で、わたしの眼鏡と下着を、とって」
彼女は紅潮した顔に、期待の光が宿る瞳で見上げる。
その眼差しと、白くなまめかしい身体から、目を逸らす彼の顔はもはや、燃えているようだ。
頭を掻きながら困ったように言う。
「いや、だから、自分で、さ……」
「駄目」
即答だった。
「ん……」
彼女は口づけを待つように目を閉じる。
彼は彼女の眼鏡に手をやる。
すっと、傷ついた眼鏡を優しく外す。
「ああ……」
なぜか、彼女から甘いと息が漏れた。
彼はどきりとしたのか、やや荒い調子で言う。
「なんで、眼鏡外すくらいでそんな声……」
彼女は目を開け、やや焦点の合っていない双眸で微笑んだ。
「次はブラ」
彼は軽いため息を吐いた。
彼女はバストを突き出す。その間に太い指を、おずおずと入れた。
フロントホックのブラに手間取る。
「どうしても苦手なんだよな、こういう細かいの……」
彼女はやや眼を細めて、微笑んだ。
「不思議……あなたは、家事一般なんでもできるのに、いつまで経っても、こういう事はできないんだから」
彼の両手を取って、自分の豊満な胸を左右から挟ませる。
「こうするの」
「なっ?!」
すると、押しつぶされた胸の圧力でブラのホックが外れた。
「簡単でしょ」
彼はそのまま、石のように固まった。
「おおお俺の手は、どうすればいいんデスカ」
彼女は、平然と言い放つ。
「揉んでも、いいんだよ?」
「なっ!」
彼は雷に打たれたように、手を離した。
すると、ブラがはらりと左右に分れ。
素晴らしい弾力を伴って、彼女のふたつの輝きが飛び出した。
古いマンガ表現なら、ここで彼は鼻血を吹いて倒れるところだろう。
彼はかろうじて目を背けることによって、そんな事態を回避した。
だが、そこに波状攻撃を喰らった。
「次は、ショーツ」
彼はううう、とうめきながら彼女のショーツに手を掛けた。
彼女の低く柔らかい声が聞こえた。
「早く」
彼は目を逸らしながら、ショーツを引き下ろした。
足を抜くと、ショーツは小さく丸まった。
一糸纏わぬその裸身は、この世の物とは思えない。まるで妖精のようだ。
彼はできるだけそれを見ないように、彼女の着ていた物をそばの洗濯機に入れた。
すると、後ろからまた抱きついてきた。
「わたしが脱がせようか?」
するり、と彼の着ているTシャツの中に手を入れる。
「おわっ!」
彼は困り果てたように問いかけた。
「もう……それだけ元気出たなら、一緒に入らなくてもいいんじゃない?」
「駄目」
やはり即答だった。
結局、風呂場に彼女を先に入らせ、後から彼も入った。
湯船に浸かる彼女が、心の底から声を出す。
「すっごく気持ちいいよ……」
その目を閉じた顔は赤く、妙に艶めかしい。
「でも、やっぱり腕の打ち身が浸みるかな」
彼はとりあえず、シャワーを浴びた。
「ん、後で冷やそうな。他に痛いところはないか?」
身体を湯船の中で起こした彼女は眼を左上に向け、考える。彼女のクセだ。
ふと何か思い当たったのか、湯船から上がり、彼に後ろからすり寄る。
「心!」
背中から飛びつくように抱きつかれ、よろける彼。
「おわっ?! 危ないって!」
軽く怒りながら振り返る彼に、彼女は微笑み掛けた。
「でも、あなたがいてくれて、良かった」
額を彼の厚い胸にくっつけた。
「本当に……良かっ……た……」
肩が震え、声は嗚咽に変わった。
彼は無言で、そっとその身体を抱き寄せた。
いつもの長身が子供のように見えた。
彼女は、そのままの体勢で今日起きたことを、泣きながら話した。
上司にセクハラ発言をされたこと。
部下に、専業主“夫”である夫を揶揄されたこと。
携帯電話の電池が切れたこと。
傘を忘れたこと。そんな日に限って、帰りに大雨に降られたこと。
近道をしようとした公園で自転車のブレーキが切れて、派手にコケたこと……。
「それで……そ、それで……」
彼はしゃがみ、まだ泣きじゃくる彼女の、額の髪を撫で上げて。
キスをした。
「大丈夫。もう、大丈夫だから」
熱いシャワーと湯船の湯気が、ふたりを包んだ。
「うむ、さっぱりしたぞ」
彼女が風呂から出て来た。完全にいつもの調子を取り戻したように見える。
バスタオル姿で、リビングへの廊下を歩く。
ちょっと先に出ていた彼がキッチンから、氷の入った野菜ジュースを持って来る。
彼女は微笑んで、それを受け取る。
彼も微笑み返し、キッチンに戻った。
彼女はジュースを一気に飲み干し、リビングテーブルにコップを置いた。
そのまま、テーブルとセットになった椅子に、ひざを閉じてななめに座る。
「ふはぁ……」
大きく息を吐いて、力を抜く。背もたれにぐったりと身体を預けた。
その姿勢のまま、背中側のキッチンにいる彼に話しかける。
「あなた」
彼はカレーの味見をしながら応じた。
「ん?」
彼女は大声で告げた。
「大好きだ!」
彼はカレーを吹いて、大きく咳き込んだ。
END
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