会社帰り。
わたしは地下鉄のホームへ降りた。
いつもやるように“降車駅で一番、階段に近い場所”まで、真っ直ぐ移動する。
そこはわたしにとって、特別な場所だった。
そう、特別な……。
素早く歩いていると、直線上にいた中年のサラリーマンが、びくっとして道を空ける。
わたしは女としては背が高い上に目つきが悪いので、しかたがない。いつものことだ。
そんな事より、わたしの頭の中は家で夕飯を用意しているであろう、夫のことで一杯だった。
わたしたち夫婦は、夫が家のことを全てやっていて、彼は働いていない。
専業主“夫”だ。
さて、今日のおかずはなんだろうな……
ハンバーグだったらいいな。彼のハンバーグはおいしいからな……
彼の笑顔も……ふふふ……
歩きながら、そんなお腹が空くようなことを考えていた。
ぼんやりとホーム左の、壁際に並ぶ客たちを眺める。
すると。
夫にそっくりの顔を見かけた。
「え……」
思わず、立ち止まって息を飲んだ。
彼が、こんなビジネス街に用があるはずもない。
「もしかして、わたしを迎えに来てくれたのか」
甘い期待に一瞬、胸がときめいた。
まるで少女のような気持ちで、そっと彼のそばに近づき、見つめてしまう。
服はグレーのスーツ。夫もよく似たものを持っている。
背格好や雰囲気は、とても似ている。
目は携帯電話を見ているので、髪に隠れて見えなかった。
だが、その髪型や鼻の形、唇、顎のライン。
あまりに似ている。
わたしは、ほぼ確信して、声を掛けそうになった。
同時にその男が何気なく、顔を上げた。
目が見えた。
男は一瞬、不思議そうな顔をし、笑った。
だがその時。
夫との、決定的な違いが解った。
濁った嫌らしい目つき。
その左側だけを吊り上げ、歪む唇。
たぶん片頬だけで、笑う人間なのだろう。
それは、わたしの夫に似ている分だけ、嫌悪感を感じた。
意識的に強く睨んでやる。
男はニヤけるのをやめ、拗ねたような顔をして携帯電話に目を戻す。
わたしは何事もなかったように、また“降車駅で一番、階段に近い場所”まで移動を始めた。
そう、わたしの彼は、ちゃんと、笑える。
綺麗な瞳と、屈託のない笑顔を持っている。
なぜか意味もなく、安堵した。
“降車駅で一番、階段に近い場所”で電車を待つ。
彼に一番早く、逢える場所。
やがて、やってきた電車に乗り込む。
先ほどの安心のせいか、少しの間、電車の座席で微睡んだ。
家でおいしいご飯を作って待っている、彼の事を想いながら。
END
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