[ひな]


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 彼女は裸足だ。
 裸足で、アスファルトの道を歩いている。
 3月になったばかりの冷たく黒い地面を、よろけそうに歩いている。
 夕日が背中から彼女を照らしている。
 小学生なのだろう、赤いランドセルを引きずっている。
 そこには、黒々と露骨で卑猥な子供っぽい落書きがしてあった。
 背丈から見て高学年だろう。
 うつむいた頭。黒い髪は乱れ、だらりと力無く下げた手の甲には、何かで擦ったような傷がある。
 地味な茶色のフリース、黒いデニム地のズボン。
 よく見ると、どちらも汚れが目立つ。ズボンはヒザに穴が開いていた。
 背後の夕日が彼女の影を、どこまでも伸ばしていた。

 彼女は何を感じたのか、突然、後ろを振り向いた。
「だれっ?」
 刺すような、しかし恐怖を含んだ叫び。それに反応したのか、電柱の影で、何かが動く。
 彼女の顔は、負の感情に歪んだ。
「い、いやっ、やめて!」
 後ずさって振り向き、逃げ出す。
「もう、いやぁーっ!」
 彼女は、ランドセルを肩に担いで走った。何度も後ろを振り返りながら。
 そのたびに涙がこぼれる。

 そこが彼女の家なのだろう、マンションに飛び込む。
 出入り口を見ながら、エレベーターのボタンを必死に連打した。
 息が荒い。
 やがて、やってきたエレベーターに飛び乗り、今度は“閉”ボタンを連打した。
 ドアが閉まると、次は五階のボタンを押しっぱなしにした。

 五階に着くと、慎重にエレベーターから出た。
 ゆっくり周りを確かめながら、廊下を歩く。
 やがて、一番奥の部屋にたどり着いた。
 彼女は少し落ち着いたようすになり、鍵をポケットから出してドアを開ける。

 そこにはコンビニ袋に包まれたゴミが、玄関から奥の方まで、所狭しと積み上げられていた。匂いも相当、酷い。
 彼女はそれに息を詰まらせることもなく、ほとんど聞こえないような声で、つぶやいた。
「ただいま……」
 中に入り、ドアに鍵を掛けようとした。
 だが、少しためらって、やめた。
 裸足のまま上がり、奥へと進む。電灯は付けない。
 途中、何かの汁に滑って転んだ。頭から通路のゴミの山に突っ込む。
 声にならない声が出た。
 体中に何かの汚れが付いた。だが、彼女はそれをただ、しばらく見ただけだった。
 ゆっくり立ち上がり、ランドセルを引きずりまた奥へ歩く。

 入ってすぐ左にある部屋を過ぎて、突き当たりにある窓ガラスの付いた引き戸を開ける。
 リビングだ。
 何かを恐れるように、素早くその戸を閉めた。
 テーブルの上のゴミを押しのける。
 ランドセルを乗せ、中からカップうどんを取り出す。教科書類や文具は一切入っていない。
 薄汚れた電気ポットには見向きもしないで、キッチンに行く。
 唯一きれいな手鍋を手に取り、水を入れ、湯を沸かし始めた。

「いただきます」
 ベランダから入る西日の中で独りささやき、麺をすすった。
 彼女の顔に少し赤みが差し、子供らしい表情が現れた。

「ごちそうさまでした」
 声が少し大きくなっていた。
 その時、玄関でドアの開く音がする。廊下に灯りが灯った。
 彼女は、すぐさまテーブルとゴミの暗い影に隠れ、息を殺した。
 廊下のほうをリビングの戸の窓ガラスから、じっと見つめている。
 品のない感じの女の声がした。
「うわ、汚いわねぇ」
 それに続いて、虚勢を張った男性の声。
「そう言うなって。オレの部屋はキレイだからさ」
 廊下をどかどかと歩く足音。ふたりとも靴のまま入ってきているようだ。
「まあでも、アタシんとこよりはマシかもねぇ」
 男性は、その女を誘った。たぶん、入ってすぐの部屋に招いたのだろう。
「こっちだ、靴は脱げよ」
「うふふ、脱ぐのは靴だけじゃないわよね?」
 部屋のドアを閉める音がした。

 リビングの影の中で少女は、うつろな目でガラス窓の向こうを見つめながら、つぶやいた。
「お父さん、今日はひな祭りの日だよ……」

 しばらくして、女のあえぎと父の嬌声が聞こえ始めると、彼女は、誰に言うともなく言葉を吐いた。
「……もう、いいよね」
 彼女はゆっくり立ち上がって、キッチンに向かう。
 流し台の下のドアを開け、包丁を手に取った。
 両手で持ち、刃を自分の首に当てる。
「もう疲れちゃった……お父さんごめんね、先にお母さんのとこに行くよ」
 今にも、その刃が頸動脈を傷付けようとしたとき、ふいに積み重なったゴミ袋が、どっと崩れた。
 少女はひるんで、そちらを見た。
「やっと、会えた」
 人形。
 ひな人形の姫が、中から現れた。
 その人形はずいぶん古いのか、薄汚れて髪も乱れている。あちこち焼け焦げてもいた。
 しかし、少女はその顔や衣装には見覚えがあったのだろう。
「うちにあった、おひな様……?」
 少女は死のうとしていたのを忘れたように、包丁を流し台に置いた。
「お母さんが火事で死んだとき、一緒に燃えたんじゃ……」
 その問いに人形は答える。だが、あまりしゃべるのは巧くないようだ。
「そのとおり、だ。ひな、会いたかったぞ」
 ひな、と呼ばれた少女は一瞬、息を飲んだ。
「おかあさん……?」
 人形は、少し頷いたように見えた。
「ひな、生きること、いのち、あること、は、しあわせだぞ」
 無表情でひなを見上げた。
「なぜ、死のうと、する?」
 ひなの目から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ、落ちた。
「だって……独りだもん! 独りなんだもん!」
 人形は静かに言う。
「生きているだけで、しあわせ、だ」
 ひなは拳を握りしめ、かすれ声で答える。
「しあわせじゃないよっ! 」
「いや、しあわせだ。わたし、は、しあわせだった」
 人形は遠い記憶を思い出すかのように、ゆっくり話した。
「ひな、と、わたしと、おとうさんが、いて、みんなでひな祭りした。あの時、しあわせだった」
 ひなにとって、ずっと昔の、ひな祭り。
 あの時は、まだお母さんも生きていた。
 お父さんも、大好きだった。
 ひなは、ひざを突いてうずくまった。
「お母さん……なんで、なんで死んじゃったの、独りじゃイヤだよ……」
 人形は、優しく言った。
「わたしは、もう、しあわせ、になる、こと、できない。でも、ひな、は、しあわせになろう、と、すれば、できる」
 ひなが人形を見つめると、少し、微笑んだような気がした。
「ひな、は、独りじゃない。お父さん、が、居る。本当は、今みたいな、人じゃ、ない。殴って、でも、目を覚まさせて、やりなさい」
 人形は、徐々に消えそうになっていた。ひなは、慌てて手を伸ばす。
「待って、お母さん……!」
 だが、すでに実体はなく、手は虚しく空を掴んだ。
「さよ、なら、だ。父さん、を、頼む……」
 人形は消え去った。
 ひなは、お母さん、と言ったきり、汚れた床に突っ伏してしまった。

 しばらくして、ひながゆっくり立ち上がった。
 その瞳には、今までとは違う、輝きがあった。
「あたし、やる。お母さん、見てて!」
 そう言うと、リビングの戸を思い切りよく開け、ドカドカと進み、父親の居る部屋に飛び込んだ。
 慌てる父親と女。どうやら、事後のまったりタイムだったようだ。
 ひなは無言で父親を、固めた拳でぶん殴った。
「父さん! 逃げてるんじゃないっ!」
 彼は鼻血を抑えながら、憑き物が落ちたような目で、ひなを見上げた。
「その言葉……おまえの母さんそっくりになったな」
 彼は、となりでポカーンとしている女に真顔で頼んだ。
「すまん、オレは子持ちで、キミとは遊びだった。別れてくれ」
 女も彼を固めた拳で殴って、出て行った。

 それから、ふたりは部屋を大掃除した。作業は、深夜近くまでかかった。
 ゴミは全て捨てた。床も廊下も、きれいにした。溜まっていた洗濯もした。

 父親がリビングの椅子にへたり込んだ。
「はーっ! 疲れた! ……あれ、ひな? ひなー!」
 はーい、と言う返事と共に、ひなが折り紙で折った簡単な雛人形を持ってきた。
 殿と姫の二体だけを、箱に差し込んで立ててある。
「今日、ひな祭りなんだ。だから今、ちょっと作ってたんだ」
 彼は、そのひな人形を見ながら、涙ぐんだ。
「そうか……昔、母さんとおまえと、みんなでやったな」
 ひなは、彼の肩に手を置いた。
「うん。信じられないかも知れないけど、今日、母さんが来て、その事とか話してくれたんだ。だから、わたし……」
 そう言いながら、ひなも涙ぐんだ。父親は、すでに号泣していた。
「いや、信じるよ。信じる。おかげで目が覚めた。オレ、何してたんだろうな……」
 ひなは父親にハンカチを渡して、ベランダに出た。
 まだ春とは言えないほどの冷気が、肌身に染みる。
 空を見上げてつぶやいた。
「母さん、ありがとう。まだ、父さんを完全には許せてないけど……でも、がんばるよ。しあわせになる」
 彼女のほほに、流れ星がきらめいた。

END


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