彼女は何を感じたのか、突然、後ろを振り向いた。
「だれっ?」
刺すような、しかし恐怖を含んだ叫び。それに反応したのか、電柱の影で、何かが動く。
彼女の顔は、負の感情に歪んだ。
「い、いやっ、やめて!」
後ずさって振り向き、逃げ出す。
「もう、いやぁーっ!」
彼女は、ランドセルを肩に担いで走った。何度も後ろを振り返りながら。
そのたびに涙がこぼれる。
そこが彼女の家なのだろう、マンションに飛び込む。
出入り口を見ながら、エレベーターのボタンを必死に連打した。
息が荒い。
やがて、やってきたエレベーターに飛び乗り、今度は“閉”ボタンを連打した。
ドアが閉まると、次は五階のボタンを押しっぱなしにした。
五階に着くと、慎重にエレベーターから出た。
ゆっくり周りを確かめながら、廊下を歩く。
やがて、一番奥の部屋にたどり着いた。
彼女は少し落ち着いたようすになり、鍵をポケットから出してドアを開ける。
そこにはコンビニ袋に包まれたゴミが、玄関から奥の方まで、所狭しと積み上げられていた。匂いも相当、酷い。
彼女はそれに息を詰まらせることもなく、ほとんど聞こえないような声で、つぶやいた。
「ただいま……」
中に入り、ドアに鍵を掛けようとした。
だが、少しためらって、やめた。
裸足のまま上がり、奥へと進む。電灯は付けない。
途中、何かの汁に滑って転んだ。頭から通路のゴミの山に突っ込む。
声にならない声が出た。
体中に何かの汚れが付いた。だが、彼女はそれをただ、しばらく見ただけだった。
ゆっくり立ち上がり、ランドセルを引きずりまた奥へ歩く。
入ってすぐ左にある部屋を過ぎて、突き当たりにある窓ガラスの付いた引き戸を開ける。
リビングだ。
何かを恐れるように、素早くその戸を閉めた。
テーブルの上のゴミを押しのける。
ランドセルを乗せ、中からカップうどんを取り出す。教科書類や文具は一切入っていない。
薄汚れた電気ポットには見向きもしないで、キッチンに行く。
唯一きれいな手鍋を手に取り、水を入れ、湯を沸かし始めた。
「いただきます」
ベランダから入る西日の中で独りささやき、麺をすすった。
彼女の顔に少し赤みが差し、子供らしい表情が現れた。
「ごちそうさまでした」
声が少し大きくなっていた。
その時、玄関でドアの開く音がする。廊下に灯りが灯った。
彼女は、すぐさまテーブルとゴミの暗い影に隠れ、息を殺した。
廊下のほうをリビングの戸の窓ガラスから、じっと見つめている。
品のない感じの女の声がした。
「うわ、汚いわねぇ」
それに続いて、虚勢を張った男性の声。
「そう言うなって。オレの部屋はキレイだからさ」
廊下をどかどかと歩く足音。ふたりとも靴のまま入ってきているようだ。
「まあでも、アタシんとこよりはマシかもねぇ」
男性は、その女を誘った。たぶん、入ってすぐの部屋に招いたのだろう。
「こっちだ、靴は脱げよ」
「うふふ、脱ぐのは靴だけじゃないわよね?」
部屋のドアを閉める音がした。
リビングの影の中で少女は、うつろな目でガラス窓の向こうを見つめながら、つぶやいた。
「お父さん、今日はひな祭りの日だよ……」
しばらくして、女のあえぎと父の嬌声が聞こえ始めると、彼女は、誰に言うともなく言葉を吐いた。
「……もう、いいよね」
彼女はゆっくり立ち上がって、キッチンに向かう。
流し台の下のドアを開け、包丁を手に取った。
両手で持ち、刃を自分の首に当てる。
「もう疲れちゃった……お父さんごめんね、先にお母さんのとこに行くよ」
今にも、その刃が頸動脈を傷付けようとしたとき、ふいに積み重なったゴミ袋が、どっと崩れた。
少女はひるんで、そちらを見た。
「やっと、会えた」
人形。
ひな人形の姫が、中から現れた。
その人形はずいぶん古いのか、薄汚れて髪も乱れている。あちこち焼け焦げてもいた。
しかし、少女はその顔や衣装には見覚えがあったのだろう。
「うちにあった、おひな様……?」
少女は死のうとしていたのを忘れたように、包丁を流し台に置いた。
「お母さんが火事で死んだとき、一緒に燃えたんじゃ……」
その問いに人形は答える。だが、あまりしゃべるのは巧くないようだ。
「そのとおり、だ。ひな、会いたかったぞ」
ひな、と呼ばれた少女は一瞬、息を飲んだ。
「おかあさん……?」
人形は、少し頷いたように見えた。
「ひな、生きること、いのち、あること、は、しあわせだぞ」
無表情でひなを見上げた。
「なぜ、死のうと、する?」
ひなの目から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ、落ちた。
「だって……独りだもん! 独りなんだもん!」
人形は静かに言う。
「生きているだけで、しあわせ、だ」
ひなは拳を握りしめ、かすれ声で答える。
「しあわせじゃないよっ! 」
「いや、しあわせだ。わたし、は、しあわせだった」
人形は遠い記憶を思い出すかのように、ゆっくり話した。
「ひな、と、わたしと、おとうさんが、いて、みんなでひな祭りした。あの時、しあわせだった」
ひなにとって、ずっと昔の、ひな祭り。
あの時は、まだお母さんも生きていた。
お父さんも、大好きだった。
ひなは、ひざを突いてうずくまった。
「お母さん……なんで、なんで死んじゃったの、独りじゃイヤだよ……」
人形は、優しく言った。
「わたしは、もう、しあわせ、になる、こと、できない。でも、ひな、は、しあわせになろう、と、すれば、できる」
ひなが人形を見つめると、少し、微笑んだような気がした。
「ひな、は、独りじゃない。お父さん、が、居る。本当は、今みたいな、人じゃ、ない。殴って、でも、目を覚まさせて、やりなさい」
人形は、徐々に消えそうになっていた。ひなは、慌てて手を伸ばす。
「待って、お母さん……!」
だが、すでに実体はなく、手は虚しく空を掴んだ。
「さよ、なら、だ。父さん、を、頼む……」
人形は消え去った。
ひなは、お母さん、と言ったきり、汚れた床に突っ伏してしまった。
しばらくして、ひながゆっくり立ち上がった。
その瞳には、今までとは違う、輝きがあった。
「あたし、やる。お母さん、見てて!」
そう言うと、リビングの戸を思い切りよく開け、ドカドカと進み、父親の居る部屋に飛び込んだ。
慌てる父親と女。どうやら、事後のまったりタイムだったようだ。
ひなは無言で父親を、固めた拳でぶん殴った。
「父さん! 逃げてるんじゃないっ!」
彼は鼻血を抑えながら、憑き物が落ちたような目で、ひなを見上げた。
「その言葉……おまえの母さんそっくりになったな」
彼は、となりでポカーンとしている女に真顔で頼んだ。
「すまん、オレは子持ちで、キミとは遊びだった。別れてくれ」
女も彼を固めた拳で殴って、出て行った。
それから、ふたりは部屋を大掃除した。作業は、深夜近くまでかかった。
ゴミは全て捨てた。床も廊下も、きれいにした。溜まっていた洗濯もした。
父親がリビングの椅子にへたり込んだ。
「はーっ! 疲れた! ……あれ、ひな? ひなー!」
はーい、と言う返事と共に、ひなが折り紙で折った簡単な雛人形を持ってきた。
殿と姫の二体だけを、箱に差し込んで立ててある。
「今日、ひな祭りなんだ。だから今、ちょっと作ってたんだ」
彼は、そのひな人形を見ながら、涙ぐんだ。
「そうか……昔、母さんとおまえと、みんなでやったな」
ひなは、彼の肩に手を置いた。
「うん。信じられないかも知れないけど、今日、母さんが来て、その事とか話してくれたんだ。だから、わたし……」
そう言いながら、ひなも涙ぐんだ。父親は、すでに号泣していた。
「いや、信じるよ。信じる。おかげで目が覚めた。オレ、何してたんだろうな……」
ひなは父親にハンカチを渡して、ベランダに出た。
まだ春とは言えないほどの冷気が、肌身に染みる。
空を見上げてつぶやいた。
「母さん、ありがとう。まだ、父さんを完全には許せてないけど……でも、がんばるよ。しあわせになる」
彼女のほほに、流れ星がきらめいた。
END
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