[雨のダンスフロア]
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 昨日からの会議が、午前中を潰しても終わらない。
 重役たちはこんな簡単な議題ひとつに、何日掛けるつもりなんだ。
 良い物は、誰が見ても良い物なのだからそれで良いじゃないか。
 もし欠点があれば、それを指摘して改良すれば良い。
 そうやって、ちゃんとした物を開発して売れば良い。
 いたってシンプルな話だ。
 人間が三人集まれば派閥が出来るというが、そんな力関係で評価するなんてどうかしている。
 それで、お客様は幸せになるのか?

 そうは思っていても、わたしは一介の主任に過ぎない。しかも、どの派閥にも属さずやってきた。
 さらに言うなら、わたしは女性だ。国の女性に対する政策なんて、この会社では全く意味を成さない。
 百年一日のごとき、古びた差別意識が残っている。おかげで発言権すらない。頭数とお茶汲みだけにいるようなものだ。
 わたしは、憤懣(ふんまん)やるかたない思いだった。

 昼休みになった。
 わたしは“午後から急ぎの仕事があるので”と言い残して、会議室を後にした。
 本当はそんなもの、ありはしない。しかし、もうこれ以上、彼らに付き合う気にはなれなかった。

 わたしは営業部のフロアに下りて、いつもの休憩場所に向かっていた。
「あ、主任! 紗弥子(さやこ)主任!」
 そのわたしを呼び止める、甘ったるい声にうんざりした。
「だから、その書類は、君に任せたはずだろう」
 振り返り腕を組んで、彼女を見下ろした。
 大木 真由(おおき まゆ)は、書類の向こうから上目使いで見上げた。
 小首をかしげ、目一杯媚びを売る。全く悪びれたようすもない。
「でもぉ、やっぱりぃ、主任じゃないとぉ、わからないこともあるんでぇ……」
 悠長な語尾に合わせて頭を振ると、そのふわふわした緩いカールの髪も揺れた。
「何度も言うが語尾を伸ばすな。それと、いつまでもわたしに聞かないで、自分で考える事を覚えるんだな」
 彼女の目が異様に輝き出す。
「それはぁ、あたしをぉ、信頼してるってことですよね!」
 まずい。わたしは危険を察知して、素早く回避行動をとった。
「紗弥子主任……大好きですぅ!」
 彼女がすがりつこうとした場所には、もうわたしはいなかった。
 肉が床にぶつかる鈍い音がした。
「あうぅぅ……紗弥子しゅにーん! 主任を男になんて、渡したくないんですぅー!」
 他の社員やOLたちが眉をひそめるのが解った。
 今度は振り返らず、廊下を進む。
 毎日、あの調子だ。わたしには過去現在未来において、そう言う意味での男などいないと断言できるのに。
 わたしは軽く溜息を吐いた。
 仕事は出来るんだがなぁ。あの語尾と性癖さえなければ……。
 
 自販機で買ったカップの珈琲を持って、いつもの所まで歩いていく。
 廊下を曲がって突き当たり。
 非常階段に通じる、簡素な鉄の扉。
 たぶん男性でも、それなりに重いであろうドア。真由の力では、到底開くことは出来ないだろう。
 この向こうの踊り場が、わたしの安息地だ。
 今みたいに気分転換をしたいときや、仕事が一段落したときに、よく来ている。
 そこなら誰の目にも留まらず、ひと息つけるからだ。
 わたしはノブを回し、肩と背中を押し当て、ゆっくり押し開けた。

 階下の街の喧噪は、いつもより遠かった。
 湿った空気が、わたしを覆う。
「雨か……天気予報は外れたな……」
 ドアが音も立てず、緩やかな弧を描いて、閉まっていく。
 少し珈琲をすすりながら、ため息ひとつ。
 目を閉じて、扉を背中で押すように、もたれ掛かる。
 金属の踊り場に、雨だれが時々響く。

 ふいに、下から男性の声が聞こえた。
 しっかり芯の通った、良い声だ。
「雨音はショパンの響き、か」
 古い歌のタイトルだった。だが、間違っていた。
 “響き”ではなくて“調べ”だ。
 訂正したい衝動に駆られたが、誰かも解らない人間の独り言だ。
 放っておけばいい。
 そう思った。

 しばらくして、また彼がつぶやく。
「あれ、響き、で合ってたっけ?」
 自分の間違いに、ようやく気が付いたようだ。
「こだま?」
 違う。それでは漫才師だ。
「んー? 流れ?」
 それも違う。流れてどうする。
「走り?」
 ショパンはスポーツ選手ではない。
 だんだん苛立ってきた。
 彼は、さらに思考を巡らしている。
「んー……し……」
 そう、あたまには“し”が付く。
「しら……」
 それだ! それ!
「しらす?」
 わたしは珈琲をこぼしそうになった。
 とりあえず、雨の掛からないところにカップを置き、階段を駆け下り、そこにいた男に指を突きつけた。
「調べです、し、ら、べ」
 こんなに冷静さを欠いた事は、ほとんど記憶にない。わたしは、今にも掴みかかりそうだった。
 だが、その若い男は臆することなく、笑いかけてきた。
「やっと下りてきてくれましたね」
 彼の言葉の意味が飲み込めず、聞き返す。
「どういうことですか」
 彼は頭を下げて謝った。
「ごめんなさい。あなたの性格を読んで、罠を仕掛けました」
 なんて事だ。こんな手に引っかかるなんて。わたしとしたことが……。
 彼は頭を上げ、淡々とだが優しい声で続けた。
「よく、あなたは上の踊り場で休憩してますよね。ちょっと、お話ししてみたかったんです」
 彼の顔はどこかで見た気がするが、少なくともわたしのフロアにいる社員ではなかった。
 まだ残る動揺を隠しながら、話す。
「そうですか。それで……お話とは?」
 彼はまた微笑んだ。
「いや、大した話じゃないんです。例えば、あなたは今度の商品について、どう思います?」
 産業スパイ。そんな言葉が脳裏をかすめた。
 我が社は、大企業とは言えないにしても、充分に中堅だ。杞憂かも知れないが、それでも気を付けるに越したことはない。
 彼が何者なのか、まず知っておきたかった。
「あ、先にすみません、なにか名刺などはお持ちではないですか?」
 彼は名刺を差し出しながら、少し皮肉っぽい顔をした。
「はい、どうぞ。でも、この名刺が本物とは限りませんけどね」
 わたしはそれを受け取りながら、彼の目を見つめた。
 彼が嘘を吐いているかどうか。わたしは、たくさんのお客様や取引先との交渉による経験から、見破れる自信があった。
「あなたの目は、純粋にわたしの反応を試して面白がっているように見えます。悪趣味ですが、嘘吐きではないようですね」
 さっきの仕返しだ。いつもにも増してズケズケと、そう、いわゆる慇懃無礼に言った。だが、彼は屈託なくにっこりと笑って、頷いた。
「嘘吐きかもしれないですよ」
 わたしは、その言葉を微笑んで受け流した。
 名刺に目を落とす。
「商品開発部員、早見 敬(はやみ けい)……なるほど」
 別のビルにある開発部の人間、しかもまだ役付きでもない者を、わたしが知っているはずはない。
 しかし……。
「腑に落ちない、という顔をしていますね」
 彼――早見はわたしの自慢と言っても良いポーカーフェイスから、表情を読み取った。なかなかやるな。
 わたしは彼に、その疑問をぶつけた。
「その通りです。なぜ、早見さんは初対面のわたしのことを、知っているんですか。上の踊り場で、わたしがよく休憩していることや、わたしの性格にまで、言及されましたよね」
 彼は、真っ直ぐ見つめるわたしのまなざしから、目を逸らさない。口元には笑いがある。
 その口を開いて、彼は、とんでもないことを告げた。
「ストーカーだから」
 わたしは一瞬、息が止まる思いがした。
どうすれば良いのか、判断が付かない。人間は予期していないことには、対応が遅れるものだ。
だがそう思った次の瞬間には、携帯電話を探してポケットをまさぐっていた。
それを見つめていた彼は、肩で笑い出した。彼の目を見ると、いたずら好きの少年のような輝きが踊っている。
「なぁんて言うと、あなたは本気にしてしまいますよね」
 軽い口調。わたしは一気に頭に血が上った。
「なんなんですか、あなたは! 大人げない! 人をバカにするにもほどがあります!」
 言い終わってわたしは、はっ、とした。
 遠い記憶のピースが、一瞬、光ったのだ。ずっと以前、似たような事をさんざん口にしたことがある。
 彼は、静かに微笑んだ。
「そういう子供が、昔、居ませんでしたか?」

 確かに、いた。いたのだ。
 わたしは、古い記憶をたぐり寄せた。
 両親が再婚した後の、遅い子供だったわたし。兄弟姉妹もいない。だから当然のように家族すら遠い存在だった。
 幼いときから、ほとんど同級生になじめず、いつも孤独を友としてきた。
 だが、そんなわたしに、ずっとまとわりついてくる少年が、いた。
 幼稚園の間だけだったが、確かに、いた。

 そう言えば、さっきからその瞳に、なにか引っかかるものがあった。そう、ちゃんと見覚えがあったのだ。
「まさか……でも、名字が違うじゃないか」
「ぼくの母も、再婚したんですよ」
 そんなことが……。
「あなた……紗弥子さんは、いつも独りでした。幼いながらもぼくは、そんな寂しそうにしているあなたに、なにかしてあげたくなったんです。でも、どうすればいいかわからなくて……」
 わたしは、微笑んだ。
「ああ、そうだった。今にして思えば、早見さん……いや、敬君はいつも、嘘ばかりついていた。あれはわたしの気を惹こうとしていたんだな」
 彼は、もやに曇っているビル群の、さらに遠くを見つめた。
「そうです。あれから母が再婚し、縁あってこの会社に就職しました。ある日、人事の資料を見てあなたがいることを知ったぼくは、その偶然に感謝しました。それから秘書を使って、あなたのよくいる場所を聞いてみたんですよ。ええと、大木さん、と言いましたか。あなたの部下の」
 人事の資料は、一般の社員が簡単に見られるようなものではない。セキュリティが掛かっている。それに、秘書とはいったい……。
 彼がわたしを振り返った。
「ぼくは、嘘が巧くなったんですよ」
 よく解らない。何を言いたいのだろう。
 彼は、にっこり笑って、別の名刺を差し出した。
 わたしは彼の真意を計りかねるまま、それを受け取った。
 見てみると、我が社の名前の後ろに『取締役専務 早見 敬』とあった。
「え……これはどういう」
 彼は驚くわたしに、ウィンクして見せた。
「そういうことです。今は次期社長になるために、開発部の人間として修行中です。誰にも言ってません」
 わたしは呆気にとられた。
「そんなバカな……」
「なんだったら、免許証も見せましょうか」
「いいえ、わかりました。それで早見さん、一介の主任に過ぎないわたしに、どんなご用件ですか」
 わたしは、すっかりビジネスモードに切り替わっていた。
 だが彼は、私のセリフを聞いた途端、大笑いした。わたしは、ムッとした。強い口調で、彼に問いかけた。
「何がおかしいんですか」
「す、すみません。紗弥子さん。昔から本当に鈍感なんですね。ハッキリ言いましょう。昔、あなたがぼくに言ってくれたように」
 わたしは、彼に何を言ったのだろう。とても大げさで、心が温かくなるようなことを言った気がするが……。
 彼は、わたしの左手を取って、キラキラと輝くリングを填めた。
「好きです。結婚して下さい」

 それから。
 わたしたちは、そのままの地位で幸せに暮らした。だが、結婚はまだ、していなかった。
 彼の『鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス』作戦のためだ。

 彼が社長になってから、十年。
 ついに、機が熟した。旧役員や重役が定年を迎えたのだ。彼はその機に乗じて派閥を事実上、解体した。
 人事は性別に関係なく、実力中心で行われた。
 わたしは重役のポストを与えられ、毎日、多忙に過ごすことになった。

 そして。
「おめでとうございますぅ! 紗弥子さぁん! とっても綺麗ですぅ」
 五月の晴れ渡った空に、明るい鐘の音が鳴り響くガーデンテラス。
 わたしは彼と腕を組みながら、ふたりで教会を出て白いリンカーンに向かう。
 大勢の社員の中から、真由が走り寄ってきてフラワーシャワーを盛大に掛けてくれた。
「ありがとう。大木部長」
「部長はやめてくださいよぅ!」
 わたしは微笑んだ。
「それで、わたしを男に取られた気分はどうだ?」
 真由はふくれっ面になった。
「もう! ……でも、社長ならしかたないな、って感じです」
 わたしは彼に話を振った。
「だ、そうだぞ」
 彼はいつもの通りニコニコしながらも、照れていた。ちょっと可愛い。

 わたしは手に持ったブーケに顔を埋めて、つぶやいた。
「人生、どうなるかなんて、わからないものだな」
 色とりどりの花の香りを、軽く吸って。
「じゃあブーケトス、いくぞ! せぇの!」
 下から、ふわりと投げた。
 わっ、と歓声が上がる。女性達が楽しそうに取り合っていた。中に真由もいた。すでに、わたしよりいい人でもいるのだろう。
 ふいに薫風が吹いた。誘われるように空を見上げると、太陽が白く輝き、まぶしかった。

 END


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