彼女は、どんなことでもクールに完璧にやってのける。しかし、ただひとつ、できないことがあった。
それは、心から笑うこと。大笑いってヤツだ。
正月休みの最後の日。俺は彼女とふたり、同棲しているマンションで、のんびりしていた。
彼女は、お茶を俺の前とその正面に並べて、優雅なしぐさでコタツに入る。
「やはり、良いな。コタツというものは」
彼女の男口調も、ずっと前から気にならなくなっている。
俺は、ミカンをむいて口に放り込む。
「ん、甘い。さすが、ウチのおじさんトコで採れたもんだな。おまえもどう?」
「うむ、頂くとするか」
彼女もミカンをひとつ、手に取り、むく。
「このスジが、なかなか取りにくいんだ」
そんなことを言ってるくせに、手早く完全にスジを取り除く。
急にオレンジ色のボールができあがったように見えた。まるで手品のようだ。
そのボールを割り、房をひとつ取る。形の良い唇を軽く開け、口に放り込む。
「ん。確かに甘い。君のおじさんに感謝だな。ウチのほうでは、こういうものはできないからなぁ」
しばしの沈黙。
お互い、お茶を少し飲む。
俺は、二個目のミカンを口にしながら言う。俺はある決心をしていた。その前振りを話す。
「同棲して三年か」
彼女も、二個目のミカンを口にしながら答える。
「そうだな。早いものだね……ところで。これはなんだ?」
突然、彼女が上着のポケットから出したもの。
それは、いわゆるフーゾク店のカード。女の子の名前とメッセージが書いてある。
それを淡々と読み上げる、彼女。
「『お話、楽しかったです。またいつでもメールしてネ! ずっと待ってるYO』……だそうだが?」
血の引いていく音が聞こえる。
なんなんだ、このタイミングは。俺の決心をくじくには、見事すぎる。
俺はなんとか心を落ち着けて、冷静に言う。
「ああ、会社の山田さんにまた、無理矢理連れて行かれたんだ、うん」
「ほう。その理由は三回目だな」
「い、ホ、ご」
俺は「いや、ホントなんだよ、あの人強引なんだから」と言いたかった。だが、焦って言葉にならない。
いつもそうだ。俺は、大事なときに肝心なことが言えない。これじゃあ、疑ってくれと言ってるようなもんじゃないか。
彼女のクールな視線が、俺を突き刺す。
だが、やがてそれは哀しそうな色に変わった。
「わたしが、外国人だからか?」
「えっ」
「わたしが、ハルマ人だからなのかと聞いている」
そう、彼女はインドの近くにあるという、ハルマという小国の姫だ。名をクーシャナ・ハルマータと言う。
彼女は十八歳の時、留学生として俺の行っていた高校に来た。
肌は健康的な小麦色で、くっきりした二重まぶたと大きな目、きれいな形の唇が印象的だった。
彼女は、教室に入った瞬間から俺を気に入ったと言う。その場でいきなり告白された。
俺は、どうすればいいか解らず、とりあえず「友達から」と答えた。
俺たちは、そんな形で始まった。
彼女は何をやらせても優秀で、完璧だった。
女子は親しみを込めて“クーちゃん”と呼んでいたが、俺はずっと“クーシャナ”さんと呼んでいた。
まだ友達だから、と自分にいいわけをしていた。ホントは“クー”って呼ぶのが恥ずかしかったんだけど。
しばらくして、気が付いたことがあった。
彼女は、笑うことがなかった。彼女の国の習慣では、それが普通だったらしい。
俺は、なんとか笑わせようと、色々と馬鹿なことをしてみたがダメだった。
でも、夏のある日。放課後、河原の道をふたりで帰る途中で少し彼女が遅れた。
その時、俺はなんの気なしに“クー?”と呼んで振り返った。見ると、靴ヒモがほどけていた。
彼女は一瞬、きょとんとして……初めて、不器用に微笑んだ。
「初メテ、アナタカラ、聞ク言葉ダネ」
あの時から俺たちは、ちゃんと付き合うようになった気がする。
また別の日。彼女は、俺の使う日本語を覚えたい、と言いだした。
彼女は、すでに日本に来た時点である程度、言葉を覚えていた。だが、その上で俺の使う言葉を覚えたかったそうだ。
俺は、さすがにあまり酷い言葉は教えなかったが、それでも、彼女はすっかり、男言葉を覚えてしまった。
それ以来、俺の前ではずっと気に入って使っている。
彼女の留学期間は、特に決まっていなかったから、高校を卒業しても俺たちはずっと付き合いを続けた。
俺たちは大学を出て、俺の就職が決まったその日から、同棲を始めた。
向こうの国の規則が許さないかと思ったが、あんがいそのへんは、おおらかで助かった。
クーは、強く言った。
「なにがおかしい?」
今や日本人より、うまくしゃべることが出来るかも知れない。
俺は我に返り、答える。
「いや、ごめん。昔のこと、思い出しちゃって。高校時代さ、俺の使う言葉を覚えたいって言った時、俺が“なんで?”って聞いたら、おまえ、答えたよな」
クーはうなずいて言う。
「宇宙の果てに届くほど、君を愛しているから、か?」
そう、それ。その言葉だ。
俺は、決心が完全に固まった。
「あん時、ちょっとびっくりしたのと……嬉しかったんだ」
今、言おう。今しかない。
「そんなに俺のこと、好きになってくれる人間は、これから先もきっと、おまえしかいないだろうと思った。でも、俺には自信がなかった。ホントは俺も、おまえに負けないくらい、おまえが好きだったけど」
クーは少し目を見開いたが、黙って聞いている。
俺の心臓は、体中に血液の激流を流し始めた。声がうわずる。
「だ、だから、俺がおまえを支えることが出来るようになったら、ずっと、ずっと言おうと思ってた言葉があるんだ」
俺は上着のポケットから、いつも肌身離さず隠し持っていた青い小さな箱を取り出した。
それをクーの前に突き出し、震える手で、そのフタを開けて見せる。
中には、給料の三ヶ月分の指輪が輝いていた。
「おまえが外国人だとか、そんなの関係ない。俺は、おまえを愛してるんだ。結婚しよう」
クーは息を呑んだ。そして、彼女の小麦色のほほを、銀色の光が流れた。
「初めて……君から、聞く言葉だな……」
ああ、あの夏の日の言葉と同じだ。そう思った瞬間、一気に言葉が涙と共にあふれた。
「俺、今まで言えなくて、今までずっと言えなくて、ごめん。三年も待たせて、ごめん。不安、だったよな。おまえみたいに素直に、なんでも、言えれば、いいんだけど、俺、俺……」
クーは、横に来て、その豊満な胸に俺の頭を抱きしめる。
「疑って悪かった。君が誠実な男だと言うことを、忘れていたようだ」
彼女は俺を離し、正座した。
涙を拭いて、呼吸を整え、三つ指を突く。
俺も慌てて、涙を拭いて、居ずまいを正す。
クーは深くお辞儀をし、言った。
「ありがとうございます。謹んでお受けします。ふつかよいですが、よろしくお願いします」
「ありがと……て、二日酔い?!」
「あ、ふつつかものか!」
彼女は、どんなことでもクールに完璧にやってのける……はずだった。
でも、違うんだ。彼女だって間違うこともある。それで良いんだよ。
それと。
できなかったことが、できるようになった。
そう、その日、俺は彼女の大笑いを、初めて見たんだ。
自分の失敗に顔を真っ赤にして、笑う彼女。
俺はその失敗より、彼女の笑顔が嬉しくて。
俺たちは、大笑いした。笑う門には福来たる。
これから大変だけど、彼女となら、きっとうまくやれる。
去年と同じ、今年も良い年になりそうだ。いや、去年より、もっと良い年にしていこう! そう思った。
END
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