目を覚ました、わたしの頬には涙が流れていた。
カーテンの隙間からこぼれる光が、天井でゆらゆらと揺れている。
枕元の目覚まし時計を手に取って見る。もう、昼前だ。
ベッドから、緩慢な動きで起き上がった。
いつもの休日のとおり、今日も宿酔いだ。頭が痛い。
よろよろと立ち上がり、吐き気を抑えながら、なんとか浴室にたどり着く。
他人のタバコで臭くなった、シワだらけの昨日の服を全て脱いだ。誰かが見ているわけでもないので、恥ずかしがる必要もない。
ブラとショーツも脱いで、専用洗濯網に入れる。
洗濯物を洗濯機に放り込もうとして、ふと、気になった。
横にある洗面台の姿見に、自分のオールヌードが映っていたのだ。
酷い顔と、むっちりとした二の腕や腹回りに、怠惰の印が明確に現れている。
「もう五年、か」
わたしは、就職と……失恋を機会に、中途半端な街から立派な都会に出てきた。
女の一人暮らしは、快適で気軽なものだった。
仕事と仕送りさえしっかりしていれば、残りのお金は全てわたしのものだ。自由になる。
大好きなスィーツも、お酒も、いつでも食べて飲んで良い。
休日には同僚や友達と、朝まで呑んでカラオケ、焼き肉、ビリヤード。
その報いが、今のわたしの状態だ。
溜息と共に頭を振ると、瞬間的に激しい痛みが襲った。
「うっ……わたしは、馬鹿だな」
脱いだ服を虚ろな洗濯ドラムに放り込んだ。が、洗濯機に拒否された。洗濯物が溜まり過ぎなのだ。
床に落ちた昨日の残滓を、無理矢理押し込む。
強引にフタを閉めて、洗濯を開始させた。乾燥までのフルコースだ。
水が強制的に入り、洗濯槽が喘ぎながら回り始める。それを見届けて、浴室に入った。
「あの場所……」
二回目の溜息と共にシャワーを手に取り、カランをひねる。
初めに出る冷たい水を手に掛けて、温度を見ながら佇む。
「別れた駅……」
両親ともに教師で厳しい家に育ったわたしは、いつも自由に憧れていた。
大学で出会った彼は、そんなわたしをまるで広い草原のように受け止めてくれた。
彼はわたしのしたい事、やりたい事、全てをにこにこと抱擁してくれた。
わたしは、何でも出来ると思っていた。彼さえ居れば。
だが。
田舎に彼を連れて帰った時、わたしの両親は、彼の事を良く思わなかった。彼が絵を描く夢を追っていた為だ。
彼の描く絵は抽象であり、色使いは大胆で印象的だったが、内容はわたしにも理解しがたいものだった。
彼に対して、なんら愛情もない両親が受け入れられないのは、当然だろう。
わたしは大都会での就職が決まり、そこで彼と暮らす事を強く望んだ。例え結婚できなくとも、同棲でも、問題はないと思っていた。
お金なら、わたしが頑張れば、なんとでもなる。わたしは、彼の為なら頑張れる。そう思っていた。
しかし、彼は違った。
小さな丘にある、駅。
周りには、田畑と背の低いビルや住宅しかない。
くだりは先のほうで地下に続き、そのまま、わたしの就職先がある大都会へと伸びていた。
のぼりは丘から眼鏡橋のような高架が突き出している。その先は緩やかなカーブを描きながら、彼の安アパートに続いていた。
わたしはいつも、わたしの賃貸マンションに近い西口の階段から、のぼりに乗って彼の元へ通っていた。
秋の、あの場所。
冷たい風の吹く、あの日。
夕暮れが迫る、あの時。
彼は夕日に照らされて、金色の縁取り。
いつもと同じ、柔らかい態度で口を開く。
『ぼくも君と結婚したい。でも、今のぼくじゃ無理なんだよ。だから』
だから……?
『別れるときは、笑って別れようって、約束したよね』
なぜ、なぜ、そうなる?
『ぼくはまだ、絵を捨てられない。だけど、君とは中途半端な形で一緒に居たくない。祝福、とまで言わなくても、ちゃんと君の両親に納得してもらいたいんだ。でも、それは無理なんだよ。だから』
別れる……?
『もう、行くよ。さようなら』
その場で泣き崩れる事ができれば、彼を引き留められたのだろうか。
彼にしがみついて、泣きわめけば良かったのだろうか。
だが。
その時のわたしは、彼との約束を守っていた。
「そうか。わかった。じゃあ、さようなら。愛していたよ」
微笑んで、彼に手を振っていた。
彼も階段を登りながら、微笑んで手を振っていた。
やがて、彼を乗せた電車が眼鏡橋の上を、あかね色の棚引く雲の中に連れ去っていく。
わたしは、それをぼんやりと見送った。
人間は本当に哀しいときには、涙など出ない。
そう、思い知った。
それから、しばらくして。
わたしは少しだけの荷物を持って、くだりの電車に乗った。
地下に入る時、全ての光が消えた気がした。
「熱っ!」
シャワーの温度が上がっていた。
慌てて調整する。
「ふ、ふふ……間抜けだな……」
自嘲気味に笑う。こんな気分でも、湯が熱ければ身体は勝手に反応するんだな。
これじゃあ、怖くて死ねないじゃないか。
わたしは、ちょうど良い温度になったシャワーの下で。
浴室の床にひざをついて。
自分の代わりに。
声を殺して。
あの時の分まで。
泣いた。
ひとしきり泣いて、なんとか落ち着きを取り戻した。
浴室を出て、適当なジャージに着替えた。
洗濯機は、相変わらず喘いでいた。
濡れた髪をタオルで拭きながら、リビングに行き、窓の外を眺める。
あちらこちらで、高層ビルが建てられている。建設ラッシュだ。
だが、どこも稼働しているようすはない。さすがに日曜日は休みのようだ。
ベランダに出て、狭い空を見上げる。
正午の太陽は夏より低くなり、風が冷たい。
あの日と同じ、秋の風。
「物思えば色無き風もなかりけり、身にしむ秋の心ならひに……か」
ふいに、そんな哀傷歌が思い出された。
新古今和歌集にある源 雅実(みなもとのまさざね)の句だ。
訳をするなら、こういう感じか。
『いなくなったあなたを思いながら身に染みる秋風を眺めると、色が無いはずの風さえも悲しみの色に彩られ、秋の常のように、いつも心が揺れ動きます』
これは本当は、若くして崩御した雅実のいとこ、堀河帝を悼んで歌ったものだ。
もちろん、わたしの愛した彼は死んでいない。……はず、だと思う。
だが、今のわたしには死んでしまったも同然だ。
携帯の番号も、パソコンのメールアドレスも、こっちに引っ越してすぐに全部変えた。
自分の甘えを断ち切る為だ。そう、ある意味、わたしは彼を殺したのかも知れない。
また、涙が溢れてきた。
「あの駅……今はどうなっているんだろう……」
涙をジャージの袖で拭きながら、思った。
そう言えば、あれから一度も行ってない。
わたしは、なぜか無性に、あの駅の“今”を確かめたくなった。
まだ、時間はある。今日は予定もない。
行ってみよう。そう、思った。
わたしは、何かに取憑かれたように服を着替え、髪を整え、化粧をした。
理性が叫ぶ。
そんな事をしても、あの頃に戻れるわけじゃないだろう。
ただの自己満足に過ぎないぞ。
よけいに虚しくなるだけかも知れないじゃないか……。
うるさい。
そんな事は解っている。
それでもいい。いや、それでいいんだ。
どういう形であれ、わたしはわたしの過去の欠片を拾い集めて、“今”という形を作り、納得したいんだ。
そうでないと、壊れそうだから。
わたしは小さなバッグを手に大都会の駅から、のぼり列車に乗って、あの丘の駅に向かった。ほぼ満員だった。
やがて、そのまま地下に入る。以前と違い、今度は小さな明りが心に灯っているような気がした。
地下を走る内に、乗客がドンドン減っていく。
やがて、長い長い闇を抜けると。
あの時と同じ色の夕日が、目に飛び込んできた。
わたしは、帰ってきた。そんな気持ちになる。
丘の駅に、静かに電車は止まった。
自動ドアが開く。秋の香りが、した。
わたしは、ホームに降りる。
夕刻だというのに降りる人は、まばらだ。こんなに少なかったのか。
ホームを見渡すと、ほとんどあの頃と変わっていない。なんだか嬉しくなった。
ドアを閉じた電車は、ゆっくりと発車した。やがて、あの日と同じように雲間に吸い込まれていく。
もう、彼が乗っている事はないのだろう。
そう思うと、心が痛み、泣き出しそうになる。
それを抑えて、ゆっくりと西口に向かった。
改札を出てすぐ右に、あの日と同じ階段があった。全く変わっていない。
あの頃は気にも留めなかったが、よく見ると相当な年代物だ。
コンクリートに小石が多く混じっている。色も黒い。
そんな階段を一歩一歩、確かめるように下りる。鉄製の手すりは、さすがに何度も塗り直された跡があった。
階段を下りる途中で、頭を上げて周りを見た。
多少、ビルが増えたものの、依然として空は広く、高い。
また、冷たい風が吹いた。色無き風。
わたしは、誰も見ていないのを確かめて。
大きく手を広げ、深呼吸をした。
「ぼくも、一緒に深呼吸してもいいかな」
驚いて、声のした方向を見る。
「まさか……」
階段に昇ってくる金色の縁取りは、スーツこそ着ているが、あの時のままだ。見間違うはずはない。
彼だった。
「ひさしぶり……だね」
優しく落ち着いた声。
「ああ、ひさしぶり、だ」
わたしは、頭の中が空白になり、ほとんどオウム返しになる。
彼は屈託無く笑った。
「変わらないなぁ。今でも、物凄くクールに見えるよ」
「あなたも、変わらない笑顔だ」
彼は、胸ポケットから名刺ケースを取り出し、中から一枚、わたしに差し出した。
「ぼくは今、そこでデザイナー兼営業をやってるんだ。小さい会社だから」
その所在地は、わたしの会社から数駅しか離れていない所だった。
わたしはそれを受け取り、まるでそうプログラムされたロボットのように、バッグから自分の名刺を差し出した。
それを見て、彼はちょっとホッとしたような表情になった。
「まだ名字、変わってないね」
心臓が一瞬、大きく鳴った。
彼は、しまった、と言う顔をして話題を変えた。
「あ、えと、今日は、こっちの取引先と打ち合わせがあってね。それで、懐かしくてさ……君のマンションの前まで行ったりしちゃったよ」
照れ笑い。人懐っこい、可愛い笑顔。変わらない、笑顔。
「いや、でも、ホントびっくりしたよ。こんな偶然があるなんてさ」
「わたしも、驚いているんだ」
彼は、そうみたいだね、と微笑む。
「その顔、ぼく以外には驚いているようには見えないんだろうな。それで……君はどうしてここに?」
わたし……?
わたしは……。
「わたしは、あなたに逢う為に来たんだ」
そう言って、彼の胸に飛び込んだ。
彼の匂い。懐かしい匂い。
「え、ええ? ど、どういう事なんだい」
わたしはそれに答えず、泣いた。大声で、泣いた。
わたしの人生で、初めての感情の爆発だった。
彼は優しく、わたしを抱きしめる。
「そう、なんだ。うん、ぼくも逢いたかったよ、ずっと」
やがて、わたしが落ち着くと。
わたしの肩をゆっくり離して、目を見つめた。
彼の頬にも、涙の跡がある。それを指でなぞりながら、聞いた。
「あなたは、もう絵を辞めたのか」
少し、笑って答える。
「いや。辞めてない。でも、あれから絵が描けなくなったんだ」
不思議に思った。
「どういう事だ」
「別れて初めて気が付いたんだ。君が居ないと、ぼくは何も出来ないって」
その目が真剣な分、ちょっと気に障った。
「ほう。随分、身勝手じゃないか」
少し、たじろぐ彼。
「う、本当に、本当にごめん」
彼は心底、謝っているように見えた。
「ぼくは馬鹿だった。それに気付いたぼくは、君と暮らすために、なんとか就職したんだ。でももう、その時には君と連絡が取れなくなってて……」
彼は、大きく息を吸い込んだ。
ぐっ、と息を止め、見たことも無いような真面目な顔をして。
言った。
「もう、二度と離さない。結婚して下さい」
ばっ、と頭を下げて、手を差し出す。
わたしは少し考えるフリをして、間を空けた。
いつまで、頭を下げたままいるつもりかな、と、ちょっと意地悪な気持ちになった。
たっぷり三分ほど経った後、わたしはその手を取った。
「はい。よろしくお願いします」
顔を上げた彼の半分泣きそうな、でも、本当に嬉しそうな笑顔が夕日に照らし出された。
その瞬間、わたしと彼の間に吹き抜ける色無き風に、色が付いた。
それはもう哀しみの色ではなく、慶びの色だった。
END
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