「どうした? 鼻の穴が広がっているぞ」
「あ、いや、そのアレだ、口だけで呼吸してると良くないらしいぞ?」
とかなんとか、そんな会話をしながら歩く。
俺の家――マンション前まで来た。
「ここか……なかなか良いマンションじゃないか」
心なしか彼女のほうから聞こえる擬音が、大きくなった気がした。
名前ばかりの狭いエントランスを進み、エレベータを待つ。
軽い到着の音を響かせ、エレベータが来た。乗り込んで、九階のボタンを押す。
加速する音を立て、エレベータが登っていく。
エレベータでは、なぜか誰もが黙って進む階の表示に注目する。
俺たちも注目していた。
突然、エレベータが激しい振動と共に止まった。
「うおぁ!?」
モーターが止まる、哀しげな音がした。
涼夏がつぶやく。
「これは……閉じこめられたようだな」
彼女の口調にも表情にも動揺の色はないように見えるが、いつの間にかそばに来て俺の袖をつまんでいる。
その姿を見て“ここで男をみせなくてどーするよ!”と、自分自身に言い聞かせた。
「え、えーと、こここういうときは、非常用ボタンがどこかに」
と、探してみる。黄色いボタンが見つかった。すぐさま押す。
ちょっと苛つくような、警告音が響く。
しっかりした口調の男性が話しかけてきた。
「はい、管理センターです。どうしました?」
このマンションには管理人はいない。遠くの管理センターが管理している。
「ああああの、エレベータが止まって閉じこめられてるんです」
必死で説明する。管理センターは、すぐ向かいます! と言って通話を切った。
「ふぅ……これでなんとかなるはず」
と、一息ついて委員長を見ると、俺を潤んだ瞳で見つめていた。
「君はなんてかっこいいんだ……惚れ直した」
そう言うと俺のほほを両手で包み、キスをした。
また来たよ、これ!
鼓動が速くなる。顔も赤いはずだ。
俺は操り人形のように、両腕をゆっくり上げた。
彼女を抱きしめようとした……が、我に返った。
はっ! だめだ!
モニターされてるんだから、やばいって!
今そんなことをしたらもう、後戻り出来ない……ここでヤっちゃう気がする!
ヤっちゃったら、マンション中に知れ渡って、住めなくなるに違いない。
俺のせいで、家族を路頭に迷わすわけにはいかない!
そんなふうに思いながら、彼女を見ると……その美しく潤んだ瞳が、うっすらと上気したほほが、疑問と期待を投げかけているように感じた。
“どうして、してくれないんだ?”
いやいやいや、そんなワケない! しっかりしろ、俺!
俺は委員長が好きなんだろ! 愛してるんだろ!
愛ってのは勢いで奪ったり、他人に迷惑掛けたりするもんじゃないだろ!
そうだよ、そう。
俺、なにテンパってたんだ。
今日は涼夏がウチに来るってだけで、ずっとヤリたいだけの俺になってた。
違う。そうじゃないんだ。そうじゃない。
もう一度、彼女をよく見ると、そこにあるのは怯えだった。
怖いんだ。もうほとんど泣いてるじゃないか。
なんてバカなんだ、俺は。
物凄く反省した。
そして、そっと彼女の後ろに手を回し、肩を抱いた。
彼女は一瞬、びくっとした。だが、すぐに俺の肩に頭を乗せてくれた。
突然、さっき聞いた警告音が響く。
先ほどの男性の声がする。
「すみません、係の者に連絡したのですが、渋滞であと三十分掛かると連絡がありました。本当に申し訳ありません。このお詫びは……」
どうやら、向こうからも繋ぐことが出来るようだ。
俺は自分でも驚くほど、落ち着いて答えた。
さっきまで彼女のことで慌ててたのが、嘘のようだ。
「いや、大丈夫です。待っています。心配ありません」
そう言うと向こうは本当に恐縮しつつ、通信が切れた。
うん。そうだよ……今、ここには委員長がいるんだから。
彼女がいれば……愛してる彼女がそばにさえいれば、どんな時もきっと大丈夫だ。そう思った。
委員長が俺に抱きつきながら言う。
「君がいれば、どんな時も大丈夫なのだろうな」
「ぷっ……」
俺は思わず吹いた。
「なにが可笑しい?」
「いや。以心伝心ってあるんだな、と思っただけ」
「……そうか。嬉しいぞ」
委員長は俺を抱きしめた。
END
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