俺と涼夏は初詣の帰り道を、まったり歩いていた。
神社から一番近い駅までの道のりだ。
街道沿いには、ちょっとした屋台や和菓子屋、お土産屋が軒を並べている。
人通りも多く、なんとなく夏祭りにも似た賑わいだ。
「本当に去年は色々あったな」
着物姿も艶やかな彼女がいつもの静かな声でつぶやいた。
涼夏は夏合宿のとき言ったように、髪を短くしていた。
艶のある真っ直ぐな黒髪は、肩よりやや上になった。
そのせいもあって、その美しい横顔はまるで日本人形のようだった。
「そうだなぁ。部長……安藤先輩も部活引退したし」
俺はその姿をなぜかチラチラと、盗み見るようにしながら応える。
まともに見るのがなんだか照れ臭かった。
それを察してか、彼女の口元に僅かな笑みがこぼれた。
と、ふいに真顔になって聞いてきた。
「明信君、あれから先輩とは間違いを犯してないだろうな?」
俺は吹き出した。
「犯さねぇよ! てか相変わらず俺、信用ねぇな!」
涼夏はちょっと立ち止まって、俺の目を覗き込んだ。
俺はそれになんとか耐えた。
「……ふむ。本当のようだな。すまない」
涼夏の目は俺の心を見透かすことが出来るようだ。
安藤先輩は俺のことが好きになって、涼夏に堂々と宣戦布告した。
涼夏も受けて立ったもんだから、おかしな三角関係が成立しちゃったんだよな。
夏合宿のとき、海で先輩に強烈に迫られてかなりきわどいことになったけど、それでも俺は先輩には反応しなかった。
そりゃあ女の子に好きだって言われて、密着されたら健全な男子としてはかなりヤバイ。
でも、俺には涼夏がいる。
だから、数学の公式とか考えて我慢したんだ。
あのまま、もし俺の妹のふゆなが割り込んでこなかったら我慢の限界に達してたかも知れない。
いつもはふゆななんて正直ウザイけど、あのときだけは助かった。
「そう言えば安藤先輩、調理系の学科がある大学に進むんだってさ」
「そうか。寂しくなるな」
俺たちはしばらく黙って歩いた。
涼夏が、ふいに何か思いついたように言う。
「ふむ。と言うことは注意しないと」
「ん?」
彼女は振り返って、手を腰に当てた。
「先輩はきっと、卒業までに君を襲いに来る」
俺は息を飲んだ。かなり顔が赤くなっている気がした。
「ま、まあ、あの人のことだから、やりそうだけどさ……」
涼夏は腰を曲げ、顔を近づけた。
ふわりと爽やかなシャンプーの香りがする。てか、近すぎるだろ!
彼女の艶やかで形のいい唇が囁いた。
「君の童貞はわたしのものだぞ」
心臓が高鳴った。
同時に股間も素直に反応する。
りょ、涼夏……。
俺は思わず、心の中の呼び捨てが口に出そうになった。
同時に、その唇に吸い寄せられてキスしようとした。
こんな場所で俺がその気になるなんて、初めてのことだ。
が、絶妙のタイミングで彼女は頭を引いた。
俺はバランスを失ってコケそうになった。
「ん、どうした」
「あ、いや、ははは」
なんとか姿勢を立て直し、笑って誤魔化した。
彼女は俺の鼻先にズバッと人差し指を突きつけると堂々と宣言した。
「絶対、君の貞操は守り切ってみせる!」
ざわ……ざわ……
通行中の人々がざわついた。
俺は逃げ出したい気分になった。
駅に着いた。
この後の予定は決まっている。
彼女が俺の家に挨拶に来るのだ。何事もキッチリしたい涼夏の性格なら当然だな。
その後、俺も彼女の家に挨拶に行くつもりだし。
俺の家に一番近い駅までの切符を買って、電車に乗った。
そこは涼夏がいつも通学に使っている学園前駅だ。
俺たちは電車のつり革に掴まって、揺られていた。
姿勢の良い彼女は、車窓から入る穏やかな日の光を受けて仄かに輝いている。
彼女は外を流れる景色に目をやりながら言う。
「悠が現部長になったのは必然だな。実力もあるし」
俺はその柔らかそうな白い頬を見つつ、答える。
「ん。悠さんなら大丈夫だと思う」
俺たちの料理部は安藤先輩が引退して、海原姉妹の姉、悠さんが部長を継いだ。
ウチの部は二年が居ない上に、三年も安藤先輩だけだった。
だから、今年の勧誘やらなんやらを仕切るのは俺たち現一年、つまり今度二年になる部員だけだ。
そう言う部分でも悠さんはうってつけだった。頭もいいし、妹の真帆さんがいるからか、年下への面倒見もいい。
海原姉妹は双子で、見た目は本当に良く似ている。
二人ともゆるい天然パーマの髪は色が薄く、ふわふわと柔らかそうだ。目はアーモンド型で明るい。
しかし、雰囲気や性格は全く違った。
妹の真帆さんは、なんというか本当に天然な感じだ。いつもポヤーンとしている。
でも男子の間では、癒し系とか和み系とか言われてけっこうファンが多い。
本人は自覚してないみたいだけど。
悠さんは涼夏とよく似た口調と雰囲気を持っていた。だけど、もっとアクティブで感情的だ。
特に坂本……トキンには異常に攻撃的なんだよな。なんでかは知らない。
トキンは俺の友達なだけで部外者だったけど、安藤先輩が辞めるときに命令されて、正式な部員になった。
でもまあ、ヤツは料理に関しては全く素人だから雑用係ってとこだな。
そう言えば文化祭のあと、部員全員が集まって次期部長を決める会議をした。
安藤部長は言った。
「実力からすると、アキ君、リョウちゃんのどっちかなんだけど……」
ちょっと言い淀んで、困ったように笑った。
「あんたたち二人は部活にあんまり時間が取れないのを前提に、あたしが誘ったから除外ねぇ」
料理部ではすでに周知の事実だったので、みんなは軽く頷いた。
「で、次に力があるのは、やっぱり悠ちゃんか」
悠さんを見ると、ちょっと片方の眉を上げていた。
安藤先輩はにこやかに聞いた。
「どう?」
悠さんは軽く頷いて、すっと立ち上がった。
「はい。解りました」
みんなを振り返る。
「では、安藤部長の指名によって、あたしが部長を引き継ぎます」
凛とした声が響く。
「一年生だけになるけれど、みなさん、がんばりましょう。これからもよろしくお願いします」
頭を下げた。
妹の真帆さんがすぐに拍手をして、みんなが続けた。
俺はそのときの満足そうな、でも少し寂しそうな安藤先輩の顔を思い出した。
「……委員の仕事もしながら部長やってた安藤先輩はすごいよな」
「うむ。確かに。その部分ではわたしの負けだ」
涼夏は素直に認めた。
ちなみに、現在の料理部メンバーは俺、坂本、涼夏、海原姉妹、阿部さん、佐藤さんの七人だ。
阿部さん――マリリンは豊満な感じの女子。女子なんだけど涼夏のことが好きで、ことあるごとにアタックしている。
佐藤さんは、胸も身体も小さくて小学生みたいな女子。表情は豊かだけど無口。
どうやら相当深い仲の彼氏が居るらしい。そのへんはちょっと羨ましい。
そうだ、今年はもひとり確実にメンバーが増えるはずだ。
ふゆな。あいつは涼夏が好きで、涼夏がいる俺の学校に進学するって言ってたもんな。
ウザイけど、しゃーねーな。
涼夏だけじゃなく、みんなもけっこう、ふゆなのことを気に入ってるみたいだし。
あいつは夏合宿からこっち、伊達眼鏡を掛け、髪型をポニーテールからツインテールにしている。
眼鏡は涼夏の真似だけど、なぜ髪型を変えたのかは知らない。
涼夏が、ぽつりと言った。
「去年の夏は楽しかったな」
「うん、うん。そうだなぁ」
特に涼夏にとっては料理部に入ったことで、一気に友達が増えたもんな。
以前はいつも独りで生きているような彼女だった。
例えるなら、荒野に突き立てられた冷たく光る鋭利な刀。
今でも相変わらずクールだけど、最近は穏やかで柔らかい笑みをよく浮かべるようになった。
人は人によって変わる。
良くも悪くも。
だったら、より良く変わりたいし、できるなら自分と関わった人には良くなって欲しい。
そう思う。
学園前の駅に着いた。
俺の家があるほうの北口改札へ向かう。
ふいに、涼夏が俺の袖を引っ張った。
「今、思いついたんだが『スーヴェニール』の店長にも新年の挨拶をしたほうが良いんじゃないか?」
「お、それもそうだな。確か今日からもう店、開けてるはずだし。じゃちょっと家に遅れるって連絡するよ」
やがて、俺たちは南口から商店街のほうへ出た。
俺のバイト先、スウィーツ・アンド・カフェ『スーヴェニール』はすぐそこだ。
入り口の木のドアを開けると、カウベルが軽やかに鳴る。
「いらっしゃいませーって、なんだ、風光さんか」
知り合いのウェイトレスが俺を見た途端、にこやかな顔から急にどうでもいいって顔になる。
なんだってなんだ。ったく。
「店長は?」
「ああ、奥、奥。あ、いらっしゃいませー」
俺になんか構ってられないとでも言いたそうにテキトーにあしらうと、すぐ後から来たお客に笑いかけた。
結構混雑してるからしゃーねーな、と思いつつ店内を出て、裏口に回る。
その途中、後ろで涼夏が何かブツブツとつぶやくのが聞こえた。
「あの子は明信君と同じ店で働いているというのに、全く明信君の素敵なところが解ってないみたいだな」
なーんか恥ずかしいこと言ってるぞー。
「だからと言って、好きになられても困るか。これ以上ライバルが増えるのはやっかいだし。ふーむ」
ないない、そんなこと。
てか、そもそも涼夏に好かれたことさえ、奇蹟みたいなもんだってのに。
「だが、それでもあの対応はどうだろう。もう少し好意的でも良さそうなものだ。こんなにいい男なのに……」
ううう。俺は自分の頬が熱くなるのを感じて、何も聞こえていないフリをした。
「あ、店長。明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとうございます。本年も風光共々よろしくお願い致します」
事務室にいた店長に俺たちは挨拶した。
店長はびっくりしたように細い目をやや見開いて、応えてくれた。
「やぁ。明けましておめでとう。こちらこそ、よろしく頼むよ」
店長はニヤニヤと頷く。
「や、それにしても明信君がぼくの店まで来て新年の挨拶とは珍しい。やはり、彼女が出来ると違うね」
俺は赤くなって、口をパクパクさせた。
涼夏が少し叱るような感じで言った。
「なんだ、明信君。今まで挨拶を怠っていたのか。それは良くないぞ。お世話になっている目上の人には、ちゃんとご挨拶しないと」
「あー、うー……はい……。これから気を付けます」
俺はうなだれて、返事をした。
店長は口を押さえて、くくく、と笑っていた。
くっそー。
店長とちょっと雑談してから、俺たちは店を後にした。
駅の北口方面に行く。
冬休みだし昼間だから、いつもみたいなウチの学校の生徒や大学生の人達は、ほとんどいない。
良く晴れてるけど、風は冷たい。
俺たちはまた、まったり歩き出した。
しばらく行くと、いつもの交差点に差し掛かった。
今は、俺と涼夏の登校前の待ち合わせ場所みたいになってる。
そう。思えばあの日、あの雨の日。
ここで涼夏が俺に傘を貸してくれたんだよな。
考えてみれば、あれから俺たちの関係は始まったようなもんだ。
「そう言えば委員長。なんであのとき、俺が傘持ってないって知ってたんだ?」
「ん? ああ。いや、知らなかった」
彼女はあの日と同じように、歩道橋の下に立った。
「ただ、今思えば、わたしは君と二人で何か話したかったんだと思う」
ちょっと思い出すように、橋を見上げた。
「だからそのきっかけが欲しくて、傘をもう一本用意して待っていたんだ。午後には雨だというのは解っていたからな」
「じゃあ、俺が傘を忘れてなかったら……?」
言い知れない不安が込み上げてきた俺は聞いてみた。
涼夏は小首をかしげて、微笑んだ。
「ん。それでもたぶん、わたしは君に何か話したくて、声を掛けただろう」
その優しい眼差しにドキッとした。
「きっと、あのときからわたしは君に恋をしていたんだ」
彼女は自分の気持ちを素直に口にした。
いつものようにハッキリと。
俺のドキドキが加速した。
「りょ……委員長!」
「ん?」
俺はついに行動に出てしまった。
我慢の限界なんか軽々と突破した。
彼女を抱きしめて、唇を重ねる。
「んん……!」
彼女は腕を俺の背中に回し、同じように抱きしめてくれた。
体中が心臓になったみたいに、脈打っている。
熱い。冬なのに汗をかく。
どのくらい、そうしていたのか。
ゆっくりと唇を離した。
「はぁっ、はぁっ……」
俺は倒れそうになるくらい、息が上がっていた。
だが、それは涼夏も同じだった。
お互い、ふらふらしている。
「あ、明信君。確かに、いつでも、どこでも良いと、言ったが、はぁっ、君がこれほど、積極的にわたしを求めるとは、予想外だ」
初めてキスしたときと同じくらいの熱量のせいで足元がおぼつかない。
俺はガードレールに手を突いて、なんとか息を整えた。
「ご、ごめん。その……我慢できなくて……」
涼夏は胸を押さえながら、柱に背中を預けていた。
肩で息をしている。顔はかなり赤い。目も潤んでいた。
「いや、良い。だが、後でふゆなちゃんに相談しなくてはならないことが出来た」
「え、なに?」
「下着の換えだ」
そそそれって、その、あの、ぬ、濡れたとかそう言うような状態になっちゃったってことか――ッ!
うあ、ダメだ。想像したら、古いマンガみたいに鼻血出そう。
俺は目をぎゅっと瞑り、頭を強く振って、妄想を払った。
「と、とにかくウチまで行こう。ほら……」
俺は彼女に手を差し出した。
「うむ、そうだな。ありがとう」
涼夏は、よろよろと俺の手を取った。
俺たちは俺の家まで、千鳥足で向かったのだった。
《end》
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