「ソロモンよ! わたしは帰って来たぁぁぁッ!」
京子だった。
水しぶきを上げ、宙を舞う。
その目は以前にも増して煌々と赤く輝き、ボロボロになっているピンクのVネックセーターとデニムのミニスカートから覗く手足は、無駄な脂肪が一切ない引き締まったものになっていた。
よく見ると、なにやら人間の抜け殻のようなものを肩に乗せている。
輝夫は叫んだ。
「て、哲也(てつや)さん?!」
哲也とは京子の恋人である。ひょろっと背の高い優しい男だった。
だが、輝夫が見たそれは、もはや骨と皮だけになった干物であった。
京子は河原にふわりと降り立つ。哲也を草の上に寝かせた。
次の瞬間、そこに京子の姿は無く、ただ河原の草が舞うだけだった。
あっという間に由姫の目の前に来ていたのだ。
京子のひざが由姫の頭を、完全に捉えたかに見えた。
だが次の刹那、由姫は輝夫を抱きながら横っ飛びして転がっていた。
「大丈夫か、輝夫君!」
輝夫はやや目を回しているが気丈に応えた。
「あ、うん、だ、だいじょうぶ」
京子が地獄の笑みを浮かべて、由姫のほうを緩慢な動作で見る。
「哲也は美味しかった……輝夫もあたしのもの……返しなさい」
由姫は輝夫のほほに軽くキスして、目を覗き込んだ。
「あなたはわたしが守る。土手の草むらでじっとしていてくれ」
輝夫はいつになくハッキリと返事をした。
「うん。解った」
その答えに満足したのか、由姫は微笑んで立ち上がった。
河原の一本道。その上で対峙する由姫と京子。
左右は、なだらかで草が茂る土手。そこに身を潜める輝夫。草むらの更に下のほうには広い土の遊歩道があり、それが河へと続く。
遠くで鉄橋を走る電車の音が響いた。
由姫がゆっくりと口を開く。
「京子お姉様、お久しぶりです。輝夫君から聞きました。この一ヶ月もの間、休学届けまで出して家にも帰らず、一体どこに行ってらしたんですか」
京子は悪魔のような笑顔を張り付かせ、由姫を見据えている。
両腕をだらりと下げた前傾姿勢だ。
「バレンタインディの借りはホワイトディで返す。そう決めてた……それだけ。名付けて《ホワイトアッシュディ》」
由姫は冷たい瞳で頷いた。
「《白い灰の日》ですか。以前よりは語呂が良いですね」
京子の姿が一瞬揺らぎ、かき消えた。
「真っ白な灰になっちまいなぁぁぁぁぁッ!」
京子の声が空から聞こえた。由姫の頭上に跳んでいたのだ。
頭を下にして腕を広げると、その爪が異様に長く伸びた。
「喰らえ! 秘術! 骸爪斬(がいそうざん)!!」
由姫はそれを見上げると、眼鏡を直した。
冷静な口調で言い放つ。
「空中では姿勢を制御できませんよ」
由姫はその場所から三歩だけ、後ろに下がった。
目標を失った京子は慌てる。
「げぇぇぇぇッ?!」
だが、受け身を取る暇はなかった。そのまま鈍い音を立てて、頭から地面に激突した。
しかし、京子の身体は異常なまでの頑強さを示す。
普通の人間ならば頭や首、腕などの骨が損傷するところだが、地面のほうがひび割れたのだ。
京子はそこにただ倒れ伏しただけだった。
由姫はそれを無表情に見下ろす。
「お姉様、もう無理はなさらないでください。輝夫君はそもそも、あなたのものではないのですから……」
地面に伏せている京子の身体がぴくりと反応した。
なんとか腕の力で起き上がろうとしている。
身体自体は頑強であってもダメージは相当なものだったようだ。
「て、輝夫は、あ、あたしのもの、なんだから……だ、だれにも! ぐほっ!」
血を吐いた。肺が傷ついているのかもしれない。
それを見ていた輝夫が飛び出してきた。
「ねーちゃん!」
彼女の肩を自分の身体に回し、立たせる。
「由姫さんの言うとおりだよ! 俺はもう、ねーちゃんのものじゃないんだよ!」
京子は力無く、笑う。
「ふ、ふふふ……あの泣き虫が、よく言うように、なって……」
京子は由姫の顔を鋭く睨む。
だがその焦点は合っていないようすだ。
「輝夫を、し、幸せにしなかったら、承知しない、か、ら……ぐふ……っ」
二度目の吐血をすると、京子の意識はなくなった。
「ねーちゃん? ねーちゃん! ね――――ちゃぁぁぁん!!」
輝夫の悲痛な叫びは夕日に木霊した。
「で? あたしを入院させた後、あたしのことをダシにヤっちゃったの?」
数日後。
病院のベッドの上に腰掛け、輝夫と由姫に軽口を叩く京子がいた。
輝夫がちょっと赤くなりながらも、怒って答える。
「そんなわけないだろ! 確かにあの日は、由姫の、その、胸で泣いたし……いちおうプレゼントも渡したけど」
由姫がほんの少し笑った。輝夫は続ける。
「でも、良かった。もう少しで退院なんだろ。先生も『こんな事あり得ない、尋常じゃない、尋常じゃないんだ』って青くなってたよ」
京子は笑った。
「血、吐いたのだって喉が傷ついてただけだったしねー。あんたと違って頑丈だから。あーあ。じっとしてると肩凝るなぁ。輝夫。肩揉んでよ」
京子が背を向けた。
輝夫は姉の肩を揉もうと動いたが、それを由姫が遮った。
「お姉様。ここはわたしが。輝夫さんより力がありますから」
京子は由姫を、背中越しにちらりと見た。
「ふぅん。そうね。じゃ、やってもらおうかしら」
「はい」
由姫の手が京子の肩を見事な手際で揉んでいく。
京子は気持ちよさそうな顔になった。
「あ、そこ……ん……うまいね。由姫」
「そうですか。ありがとうございます。京子さん」
由姫が姉の肩を揉むのを、にこやかに見つめる輝夫だった。
しばらくして、なにか思い出したようにつぶやいた。
「あれ……誰か忘れてるような気がする……」
その日の夜。
指先でバスケットボールをクルクル回転させながら、河原の道を歩く男がいた。
以前、由姫に告白して玉砕した元バスケ部主将の岩本である。
今は卒業して、大学へ行くまでの休み中だった。
しかし、慣れ親しんだマイボールは手放すことなく常備している。
「あーあ……由姫よりイイ女なんていねぇよな、やっぱ……」
ふと、彼は街灯の下で立ち止まった。
「ん……なんだ、なんの声だ。……まさか、ホントに出やがったのか」
彼は耳を澄ます。
「うう……ごめん……ごめんよ……」
土手の暗闇から男の泣き声が聞こえる。
「マジかよ……。噂どおりじゃねぇか……」
ここ数日、この河原では泣き声とともに怪しい男が出ると、近所の噂になっていたのだ。
草むらが断続的に揺れ、擦れる音がする。
それは土手をだんだん登ってくる。
岩本はボールを構えた。
声が近づく。
「ううう……ごめん……きょうこちゃん……」
一歩、一歩、接近してくる。
岩本が固唾を呑んだ。
すると突然、ミイラが明りのもとに飛び出してきた。
「ごめんよぉぉぉ! もう由姫ちゃんのことは諦めるからぁぁぁぁ!」
「うわぁぁぁぁッ!」
岩本は恐怖にすくみ上がり、バスケットボールを投げつけることさえできなかった。
だが、その顔立ちを見て岩本は思い出した。
「おまえ……哲也? 哲也じゃないのか?!」
ミイラも気が付いたようだ。
「い、岩本?」
「哲也ぁ! 一ヶ月も行方不明で捜索願いが出てたんだぞ! それがなんでこんなところで、ゾンビの真似なんかやってんだ?」
哲也はもう枯れ果てたはずの涙を浮かべて、岩本に抱きついた。
彼らはクラスメイトだったのである。
やがて、お互いの事情を話し合った彼らは意気投合した。
そのまま、肩を組んで呑みにいった。
その帰り。二人の酔っぱらいが例の河原の一本道を千鳥足で歩いていた。
月が二人の影を道に落とす。それは水面のようにふらふらと定まらなかった。
「哲也ぁ、ホントヒドイ女だな、その京子って!」
「岩本ぉ、もういい! 京子ちゃんは諦める! やっぱ由姫ちゃんだよなー!」
「なんだとお! 由姫は俺のもんだ! 俺の……くっそぅ柏木姉弟めぇ!」
「ばかやろおー!」
「ばかやろおー!」
夜空にその咆吼は虚しく響いたのだった。
どっとはらい
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