彼女とは俺が東京から大阪の高校に転校してきたその日のうちに大々的かつ一方的な告白をされて、付き合うことになった。
もう、あれからほぼ一年になる。
彼女は、背は高いが大人びた感じではなく、少しあどけなさが残る可愛い女の子だ。
髪は肩までのストレートレイヤー。授業の時だけ、眼鏡を掛けている。
クラス委員で勉強もスポーツもできる上に、いつも明るく笑いを絶やさない。もちろん人気者だ。
だが、俺にはその笑顔を見せない。
彼女にとって笑った顔を見せる相手は、敵だという。
その愛らしいスマイルは、周りから自分を守るための壁なのだ。
だから、心を許している俺にはいつも無愛想な表情をしている。
彼女が俺の前で笑うときは、いつも俺に抱きついて声だけを聞かせてくれていた。
なにが原因でそんなふうにしているのか、俺はまだ聞いていない。
気にはなるが、でもそれは彼女が自分で言い出さない限り、聞く事じゃない気がしていた。
JR大阪駅の改札前に現れた彼女の姿を見て、俺はちょっと当てが外れた、と思う。
彼女が小首をかしげて、問いかけた。
「なんやのん? その、がっかりだよー、て顔は。もしかして、初詣やから晴れ着とか期待してたん?」
うう、見透かされている。
「それやったら、ごめんな。ウチ、誰も着付けとか出来へんのよ」
無表情ながら、素直に謝る。
俺は、微笑んで応えた。
「いや、いいよ。今、着てる物も、その普段着じゃあないみたいだし、うん、なんだ……えと」
確かに、晴れ着ではないにせよ、かなり気合いが入っている感じだ。
雪のように白いファーのついた高そうなハーフコートに、ベージュのタートルネックセーター。素材はカシミアか。
下は三段になったフリルが特徴的な黒いミニスカートに、厚手の黒いタイツ。靴は凝った革細工のミュールだ。
やはり白いファーの小さなポーチを持っている。
彼女は俺の腕に抱きついた。
「んふふ」
俺に顔を見せないようにして、笑い声だけ響かせる。
「その態度、あたしの服、似合うてる言うことやな」
「あー、まあ」
あいまいな返事をしたが、彼女は上機嫌のようだ。
「ん。良かったわ。ほな、京都行こか」
俺たちは、京都の北野天満宮に向かった。
なんでも、学問の神様を奉っているらしい。
俺は電車の窓を流れる景色を見ながら、彼女に問いかける。
「えーと、誰を奉ってるんだっけ」
彼女は、やや呆れたように応えた。
「菅原道真(すがわらのみちざね)公や。あんたがそんなんやから、学問の神様にお参りに行くんやで」
うう。そりゃ俺は、勉強については自慢できる事は何もないけどさ。
特に九条みたいなスーパーガールとは、釣り合わないレベルだと思う。
「来年は受験なんやし、ボーッとしてたら一緒の大学行かれへんねんで。わかってるか」
俺はちょっと、ムッとした。
「わかってるよ! なんだよ、まだ先のことだろ」
彼女は頭を横に振った。
「わかってへん。ま、そうやろ思てな、ちゃんと用意してるもんがあるんや」
彼女は、ポーチから折りたたんだ紙を取り出した。
それを広げて俺に見せる。
そこには、パソコンの表計算ソフトでプリントアウトされたらしい、一年分の学習課題と到達目標が、月ごと週ごとに克明に書込まれている。
「これ、あんたのために作った今年の勉強計画表やから。このスケジュールに従って勉強したら、あたしと同じレベルになれる。もちろん、日別のも用意してあるからな」
俺は呆気にとられた。
「はぁ? マジかよ」
「マジに決まっとるけど、なにか?」
彼女は間髪入れず、鋭い眼光で返答してきた。
うう。
京都駅から市バスに乗って、北野天満宮前で降りる。
大阪より、やや寒い。
空気が凛としているように感じた。
「さ、着いたで。お参りや」
三日目とは言え、やはりお参りの人は多い。
俺はなんだか、色々ぐったりしながら境内に入ろうとした。
「あ、待ちいや。まず境内に入る前には、一礼して、足は左足から入るんや」
俺は逆らう気力もなく言われた通りにして、参道に入る。
「あ、もう、参道の真ん中は神さんが通らはるトコやから、空けとかなあかんの」
彼女の指摘は続く。
「ほら、ちゃんと石畳の上歩いて。ショートカットしたら失礼やろ」
「屋台で何か買うのは帰りや」
「お賽銭入れてから、二礼二拍、その時お願い事して、もいっかい一礼な」
俺たちはお参りを済ませた。
「次はお守り買うで。もちろん、学問のやつ」
走り出しそうな彼女を呼び止める。
「あのさ、戎。ちょっとこっちに来てくれ」
彼女は怪訝そうな顔で、俺の近くに来る。
「あの本殿の屋根、木で複雑に組んであるだろ」
彼女は、屋根の下を見上げる。
「ああ、そうやね。それがどうしたん?」
俺は言葉を続ける。
「日本は地震が多いけど、この建物は慶長十二年から倒れたことはないそうだ」
戎は、俺の目を疑問の眼差しで見つめた。
それを見つめ返し、応える。
「つまり、あの木で組んであるもの、組み物って言うんだけど、あれは古代の耐震構造なんだ。木を巧く余裕を持たせながら組み合わせて、地震の揺れを分散させている。あれがもし、鳥居みたいに石作りだったり、がっちり固定されていたら、あっという間に壊れてたはずだ。実際、鳥居の地震による倒壊は多いんだ」
彼女は、ゆっくり頷いた。
「要するに、あたし、あんたに対して余裕がないって言いたいわけやな……」
俺は彼女を優しく見た。
「ごめん、なんかこんな言い方しかできなくて」
彼女は首を横に振った。
「いや、ええんよ。ヒロくんがあたしも知らんそんな事、知っとるなんて意外で嬉しいし。……そうやな……確かに余裕なかったわ。焦ってた」
しばらく間があった。
やがて、真剣な目で俺を見る。
「なぁ、ヒロくん。ちょっと話、聞いてくれる?」
俺たちは、参拝客の邪魔にならないよう、本殿の横に移動した。
彼女は俺の手を握りながら、しかし、俺を見ることなく地面に目を落として。
とつとつと話し出した。
「あたしがなんで、笑顔で周りの人を遠ざけるのか、その原因て話してなかったな……。あれは、もう十年以上も前の事や……」
戎にはひとつ違いの弟がいた。
ふたりはいつも仲良く、一緒に遊んでいた。
だが、そんな幸せの日々は長くは続かなかった。
戎の両親が離婚したのだ。
その頃から、弟は無表情になり笑わなくなった。
子供を引き取った父親は、めったに家に帰らなくなり、たまに帰ってきては、暴力をふるったという。
『なんでおまえは笑わんのや! 笑え! 笑えやぁッ!』
父親はそういって暴れた。
その時、戎は父親の足を掴んで懇願したという。
『あたしが笑うからッ! あたしが笑うから、許したってぇ――ッ!』
それから、彼女は何があっても父親の前では、笑顔を絶やさなかったという。
弟のために。
それが全てだった。
そんな日が続いていた中、さらに不幸は起こった。
弟が、交通事故に遭って亡くなったのだ。
葬儀の時、彼女は棺桶の前で……涙を流しながら笑っていたという。
もう、本当の泣き方を忘れていたのだ。
それを見て不気味に思ったのか、その日から父親の消息はぷっつりと途切れた。
独りの家で彼女は、何も感じなくなったという。
誰もいない。何もされない。
何もしてあげられない。
ただ、無表情でテレビの笑い声を聞き、アイドルの笑顔を見ていたという。
やがて不審に思った叔母が、戎の家を訪ねた。
その時、戎は憔悴し切って死ぬ寸前だったという。
叔母は、人情家で子供がなく、それなりに裕福だった。
おかげで、引き取られた戎は愛情深く今まで育てられたという。
「ほんでな……死んだ弟がな……ヒロくんそっくりやねん。せやからな……せやから……」
無表情にうつむく彼女のほほに、銀色の雫が流れた。
俺はまわりのことなんか気にも留めず、彼女を胸に抱いた。
彼女は号泣した。
まるで赤ちゃんのように。
彼女は、本当の泣き方を今、思い出したのかもしれない。
そう思った。
「落ち着いた?」
戎が鼻を真っ赤にして、頷く。
俺はティッシュを彼女に渡した。
「ありがと」
静かに鼻水を拭き、それを丸めてポーチに突っ込んだ。
「ヒロくん」
「ん」
「あんたは死なんよな」
「ああ」
「ほんまやな」
「ああ」
「ほんまにほんまやな」
「ああ」
次の瞬間。
彼女は、俺に抱きついてキスした。
やがて離れると、ほんの少しの、ぎこちない笑顔を見せて。
「大好きや」
そう言って、お守りを売っている所に走り出した。
「あ、おい!」
俺は急に恥ずかしくなって、慌てて後を追った。
死なない人間なんていない。それに、いつ死ぬかなんて解らない。
でも俺は、とにかく彼女より先には、絶対、死なないと心に決めたんだ。
彼女が今、見せてくれた初春にふさわしい微笑みに懸けて。
END
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