穏やかな春の日差しがレースのカーテンを通して入ってくる。
わたしは、その直射日光が当たらないように置かれた机で静かに文庫本を読んでいた。
「この男はなんと不埒なんだ……」
田山花袋の『ふとん』である。
「妻がありながら、自分の女弟子に惚れるとは全く……」
わたしは本を置くと、ベッドに行って転がった。
手足を広げて、大の字になる。
ジーンズで良かった。スカートだったらあられもない姿だ。
とは言え、今はこの家にはわたし以外ないのでどうであれ、気にする必要はないのだが。
「本当に男というものは、妻があっても別の女性を好きになってしまうものなのだろうか」
そう、つぶやいた。
『ふとん』という小説は、日本で初めての私小説だ。
つまり、私小説であるという事は、事実であるという事に非常に近いと思われる。
だが、わたしにはもちろん妻になった経験があるわけもなく、知識もない。
テレビや雑誌では非常に良く話題に上るようだが、わたしはほとんどテレビも見ないし雑誌も買わない。
彼氏持ちの面々も皆、高校生だから妻の経験者ではない。
だからと言って、母に聞くのも気が引けるし、そもそも今すぐ聞けるわけではない。
いっその事、ネットで調べてみるか……。
そう思って身体を起こそうとしたが、そんな事をネットを使ってまで調べようとする自分に嫌気が差した。
「はぁ……」
春休みになると、いつも不安だった。
それまでの委員の仕事や勉強も一段落付いてしまい、やる事がないからだ。
わたしは十七歳になったばかりの春を文字通り、持て余していた。
ふいに、『G線上のアリア』の着信メロディが部屋に流れた。
この曲を設定していた相手は確か……。
そう、母でもなく、ふゆなちゃんでもなく。
彼だ。
明信君だ。
しかも、メールではなく電話だ。
わたしはその珍しい電話に慌てて立ち上がった。
だが、それがいけなかった。
わたしは床に置いてあるガラステーブルの角で、足の小指をしたたかに打ち付けた。
激痛に身をよじりながらも、机の上にあった携帯電話になんとか出た。
いや正確には、ただ開いて通話出来る状態にしただけだった。
彼の声が聞こえる。
「もしもし……? 俺、だけど。あ、えと明信、だけど」
ほとんど聞いた事のない電話越しの声が新鮮だ。
だが、その嬉しさよりも今は、痛みがわたしの中で猛烈に走り回っていた。
おかげで声が出ない。
かろうじて出るのは、うめき声だけだ。
「……う、ううう」
彼は慌てる。
「な、どうした、委員長? 委員長だよね? もしもし?! もしもーし!」
だが、わたしはまだ声が出ない。
涙は出てきたのだけれど。
「はっ、はぁっ、ああ……」
「ちょ、ちょっと待ってろ! すぐ行く! 近くまで来てるんだ!」
彼はそう言って、プツリと電話を切ってしまった。
わたしは泣きながら、その場にうずくまった。
痛みと恥かしさと――彼の優しさで。
しばらく、そう、ものの三分ほどすると玄関のインターホンが鳴った。
わたしの小指の痛みはその時点で、かなり引いていた。
にじんだ涙を拭いて、一階のリビングに下りていく。
その間にも、二、三度、ホンが鳴らされる。かなり心配しているのだろう。
やっとリビングに到着したわたしは、ホンの通話ボタンを押す。
モニタに白いパーカーとジーンズを着た彼が映った。
「あっ、りょ、リョウカサンですか?! 大丈夫なのデスカ!」
わたしは声の裏返った彼の可笑しな問いかけに一瞬、噴き出しそうになった。
だが、至って冷静を装い、ノリをもって返した。
「はい、リョウカサンです。大丈夫なのデスヨ」
「な……なんだよ、もう! 元気そうじゃないか。さっき、すげーびっくりしたんだぞ!」
モニタに写る彼の顔はホッとしていた。
予想通り、ノッて返答する方法は彼の緊張を解くのに役立ったようだ。
「すまない。まあ、上がってくれ。詳しく説明しよう」
「あ、ああ。んじゃ、こっちも用があるし、邪魔するよ」
「うむ」
わたしは解錠ボタンを押し、気分良く通話を切った。
「どうぞ」
「あ、ありがとう……んぐんぐ、旨ぇー!」
彼はわたしの注いだ100%オレンジジュースを一気に飲み干した。
わたしと彼は、リビングテーブルを挟んで向かい合う形で座っていた。
彼が飲み干したコップに、ピッチャーからさらにジュースを注ぐ。
「おかわりはまだまだあるから、好きなだけ飲んでくれ」
「うん、ありがとう。んぐんぐ……」
わたしは勢い良くジュースを飲む彼の喉元を、微笑ましく見ていた。
上下する喉仏がセクシーだ。
わたしもそれを見ながら、コップに口をつけた。
お互い、すっかり飲み干してしまう。
彼は軽く音を立てて、コップを置く。
「ぷは……」
少し姿勢を崩して、私を見た。
「それで委員長は、なんであんなに苦しそうってか、つらそうだったの」
わたしもコップを置いて、溜息混じりに答えた。
「それが、君からの電話を取ろうとして慌ててしまい、足の小指をテーブルで打ってしまってな」
彼が自分のことのように眉をしかめた。
「うわー。痛ぇ……。今は平気なのか」
わたしは、自分の足に目を落として確認した。
「うむ。まだ少し痛むが、特に腫れたりということもないようだ」
「そか。そりゃ良かった。しっかし、おまえがそんなそそっかしいことするなんて珍しいな」
その言葉を聞いて、少し拗ねるような気持ちになる。
「それは、君が電話をして来る、などという珍しい事をしたせいだ」
「……電話、そんなにしてなかったっけ」
わたしは手にしている空いたコップを見つめ、両手のひらで挟み込んで転がすように動かした。
「んむ。それは確かにいつも学校で逢っているし、必要事項のみならば、メールを交換しているから良いのだけれどな」
その空のコップを弄ぶ行為は、わたしが自分で思っている以上に、彼に対して拗ねていると思わせたようだ。
「ごめん、委員長」
彼の両手が伸びて、わたしの手を包んだ。
ドキリとする。
目線だけを上げて、彼を見た。
照れるように笑う彼の顔があった。
「いや、メールもなんだけどさ。俺、なに話していいかとか、わかんなくて」
わたしはかすかに頷いて、目線をコップに戻す。
「言い出しておいてなんだが、実は、それはわたしもなんだ」
「え、そうなの?」
「んむ。話したい事や言いたい事は、たくさんあるように思うのだけれど」
わたしたちの手の中のガラスコップに、陽光が穏やかに反射している。
「いざ、用事以外で何か電話しようとしたり、メールを書こうとしたりすると、何も思い浮かばなくなる」
「そ、そか……同じだったんだ」
「ん」
わたしたちはそのまま、黙り込んでしまった。
彼の手のひらからの熱に、心が温められる気がする。
この前までは外でうぐいすが鳴いていたが、もうその時期は過ぎている。
今は時折の春風が庭の木々を揺らす音がするだけだ。
静かで緩やかな時間の流れ。
その中でお互いの鼓動だけが響く。
「明信君」
「ん」
「君がわたしと結婚したとして、わたし以外に好きになる女性がいると思うか?」
彼は顔をわたしから背けて、咳き込んだ。
「げほっ! な、なにまたそんな事、急に?!」
「ちょっとそういう内容の小説を読んでいてな。男性の立場からはどうなのか聞いてみたくなったんだ」
「そ、そうなんだ。俺に限って言えば、そんな事ないよ」
「絶対か?」
「絶対。てか、先輩の事でそれはもう判ってるはずだろ」
「むう、確かにそう言われればそうか」
明信君は魅力的な年上の女性に迫られても、わたしへの想いを貫き通してくれたのだ。
だが、もし年下の可愛い女の子だったらどうだろう……。
いや、わたしは彼を信じると決めたし、そのつもりだ。
それがまた、疑心暗鬼に囚われている。
何と情けなく、嫉妬深いのか……。
「どうした? 石みたいに固まって」
「あ、いや。君の気持ちは解った。ありがとう」
「いいえ。どういたしまして」
少しおどけたように笑う。
「そう言えば明信君はなぜ、この近くまで来ていたんだ? わたしに電話をしてきた事を考えると、何か用があったのだろう」
彼は、急に思い出したように答える。
「あ、そうそう。せっかく春になったし、みんなで花見でもしようかって事になったんだ」
「ほう。それは良いな」
「んで、委員長の家の近所に良いお花見スポットがあるって聞いてさ」
「ああ、あの川沿いの遊歩道がある公園だな。確かに綺麗だぞ」
「うん、うん。それで駅に着いたから、委員長を呼ぼうって電話したんだけど……なんだか大変な事が起きてると思って、すっ飛んで来たんだ」
「なるほど。そうなのか。だったら、わたしが大丈夫だと解った時点で早く言えば良かったのに」
「まあ、そうなんだけどその、顔を見ちゃうと、つい……」
彼は、お互いの手を重ねながら挟んでいるコップに目を落とした。
わたしは少し嬉しくなり、微笑んだ。
だが、ここは軽く叱っておくべきだろう。
「全くそんな事では嫌われ者になるぞ。まあ、君は人気者だからそんな事は気にしないかも知れないが」
「って、俺が人気者っていつからさ?」
「ん? 中学の時からずっとそうだと聞いているが?」
「ええ?! し、知らなかった……」
「前のクラスの女子の中には、隠れファンもいたと聞いたぞ」
「えっ! なんだよそれ。惜しい事したじゃん……」
「何か言ったか?」
「いえ、何でもございません」
そんな漫才をしていると、ふいに彼のほうから『ワルキューレの騎行』が聞こえた。
彼が重ねていた手を片方だけ離す。
ポケットから携帯電話を取り出して、開けた。
「はい、ああ、ごめんごめん。うん、大丈夫だから……え、場所がない? それは困ったなぁ」
どうやら、みんなはもう公園のほうに行ってしまったらしい。
だが、場所がないという。
わたしは、彼に電話を渡して欲しいというジェスチャーをした。
「あ、ちょっと委員長に代わるぞ」
彼から電話を受け取る。
「もしもし。花鳥です……あ、ふゆなちゃんか。卒業おめでとう……いやいや。うん、うん。大丈夫だ」
彼女の声は今日も元気で明るい。
「それで、お花見をする場所がないのだろう? ……ん、だったらウチに来れば良い。一本だけだが、裏庭に桜が咲いているんだ」
明信君が驚きの顔をした。
「ん。そこからだとやや歩く事になるが、それで良ければ。……そうか。じゃあ待っている」
わたしは彼に電話を返した。
「ああ、俺だ。そうだな、誰も反対するヤツはいないよな。ん、待ってる。じゃな」
電話を閉じた。
「てか、委員長の家には何でもあるな」
「いや、そんな事はないぞ」
わたしは立ち上がって、彼のそばに行く。
「いつも一番欲しいと思っているものが、普段はここにないんだ」
「えっ?」
座っている彼の上から、微笑んだ。
「それは君だ」
そう言って彼の唇を奪ったのだった。
《つづく》
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