[深淵の記憶]  3/緑輝く草原
[1/氷の勲章]へ戻る
[2/怯える兎]へ戻る
=涼夏の物語= topに戻る
topに戻る

 それ以来、わたしは彼の夢は見なくなった。
 代わりに、沼に浸かる夢を見るようになった。

 周りは重く垂れ込めた雲と、荒涼とした地平。
 そしてそれらさえも覆い隠そうとするような、深い闇。

 そこにぽっかりと穿たれた漆黒の穴のような沼。
 身も凍るほど冷たい。
 わたしは最初、足首まで浸かっていた。

 毎日少しずつ、沈んでいくのが解った。
 だが、そこから逃げ出そうと言う気は起こらなかった。

 中学卒業の頃。わたしはそれまでずっと委員長を歴任し、その時には生徒会長だった。
 だが、それは、わたしにとってただの蔑称だった。

 進路指導で担任の先生は、わたしを褒め称えた。
「あなたはどんな有名私立高校にでも入れる成績よ」

 別に上の高校を狙って、勉強していたわけではない。
 ただ、この現実から逃げるためにしていたのだから。

 わたしはもう疲れていた。
 卒業してもまた、高校で酷い目に遭うのだろう。

 もう友達も恋愛も必要ない。
 わたしに必要なのは、勉強だけ。平穏に静かに勉強が出来ればそれでいい。
 不必要に競争しても、また軋轢が生まれ、さらに疲れるだけだ。

「近くで通える範囲の公立が良いです」

 先生はしきりに残念がったが、わたしは知っていた。
 この人はわたしの成績しか見てない人だと。

 人間は信用できない生き物だ。私も含めて。

 もう、わたしは他人になんの感情も露わさない人間になっていた。
 事務的な言葉しか吐かず、誰とも普通に話すことはなかった。

 その時、わたしは冷たい闇に腰まで浸食されていた。

 これで、いい。これで、いいんだ。
 このまま、わたしは闇に呑まれてしまうのを待つんだ。
 そうすれば、楽になれる……。

 やがて、わたしは家から比較的近い高校に入学した。
 クラスの自己紹介で言った。

「わたしには、近づかないで欲しい」

 わたしは闇の沼に飲み込まれるまでは、やはり素直に正直に生きたいと思った。
 氷の勲章が教えてくれた最初の強さが、まだ鈍い光を発していた。

 でも、もう誰も、決して傷つけたくはない。
 怯えた兎が物語った悲しみを、心に刻みつけていた。

 だから、誰もわたしに近づかないで欲しい、と思った。
 わたしの言葉は水晶で出来た鋭利な剣だから。

 クラスのみんなは唖然とした。
 ただひとり、わたしを哀しそうな瞳で見た男子がいた。

 もう、部活には入らなかった。相変わらず、委員長にはなったが、それも人を遠ざけるために過ぎなかった。

 それでも最初のうちはクラスの女子たちが、わたしを何かと放課後の遊びに誘って来た。
 だが、君たちにはそんな暇はないはずだと言うと、二度と誘ってくることはなかった。

 いわゆるクラスの輪からは完全に外れており、誰からも無視されていた。
 だが、さすがに積極的ないじめはなかった。そこはやはり高校生。
 みんな、少しは大人になっていたと言うことか。

 平穏に静かに、しかし、確実に闇に飲まれていく日々。
 すでに、沼はわたしの顎の下まで来ていた。

 完全に飲み込まれた時、“わたし”はいなくなるのだろう。
 ただの有機的な機械に変わるのだ。

 しかし。
 どこかで……何か違和感があった。
 そう、あの男子。あの哀しそうな瞳。

 確か……変わった名字の……そう、風光(かざみつ)。
 風光明信(あきのぶ)だ。

 彼は名字以外、特に変わった男ではなかった。
 どこにでもいるような普通の男子。
 勉強もそこそこ、スポーツもそこそこ。顔も背丈も本当に普通だ。

 わたしは、気になっていた。
 あの時、なぜ、わたしを哀しい目で見たのか。

 それが聞きたくて、彼を注目するようになった。
 今度は慎重に、傷つけないように話すためだ。

 彼はクラスの内外を問わず、誰とでもすぐ打ち解け、男子も女子も、先生さえ区別なく、バカ話をしては笑わせていた。
 だが、決して誰かを貶めたり、陰口を叩いたり、嘘を言ったりはしなかった。
 約束を破ったと言う話も、聞いたことがなかった。
 何か失敗をした者には、その人に合ったフォローをさりげなくしていた。
 言葉は羽のように軽い。だが、それは羽毛のように確実にみんなの心に暖かさを与えていた。女子には隠れファンも多いらしい。

 そういう男なのか……。

 梅雨の時期。今にも雨が降り出しそうだった。
 わたしは真意を聞くため、彼を学校の裏庭に呼び出した。

「委員長が俺に話って珍しいなぁ。なに?」

 軽い口調で聞いてくる。わたしは、聞いた。

「クラスの自己紹介……覚えているか?」

「俺、委員長になんか言ったっけ?」

「そうではない。……わたしの言葉だ」

「……ん、まあ」

「どう思った?」

「お……っと。さすが委員長だなぁ、バレてたか……」

少し声のトーンを落として、続ける。

「うん、そだな……正直……哀しいこと、言う子だなって思った」

「やはり、そうか……」

「……あー、委員長さ、今のまんまじゃ、もたねぇんじゃねーの?」

 ふいに、わたしの心に少し変化が訪れた。
 誰も言ってくれなかった、言葉。

「今まで委員長に何があったか解んないけどさ、んー、きっと、昔のことはもういいんだよ。忘れても」

 わたしの闇の世界に、一条の光が射した。

「赦してやれよ。自分を、さ」

 その言葉が漆黒の沼を照らし出した。
 わたしを浸食していたその正体。

 それは濁った氷の勲章を胸につけ、怯えた兎の目をした……
 わたし自身だった。

「解った……もういい。戻れ」

 横を向いて、それだけ言うのが精一杯だった。
 わたしは全身が熱くなるのを感じていた。
 感情……それは、ある感情のせいだった。

「おう、んじゃな〜」

 いつものように軽く言って、手をひらひらと蝶のように振りながら彼は戻っていった。

 わたしはそれを横目で見て……
 降り出した雨の中、独り佇んでいた。

 目を瞑って、顔を空に向ける。優しく暖かい雨だった。
 顔に流れるそれが……涙だと気が付くのに少し時間が掛かった。
 もしかしたら少し、笑っていたかも知れない。

 心の中には、もう闇は無かった。
 よく晴れた夏の緑輝く草原が広がっていた。

 ……

 ……

 ……ああ……

 雨の音。

「おい、寝てるのか……?」

 聞き慣れた声。

「しょうがないなぁ。自分から定例勉強会だとか言っといて、寝るのかよ」

 言葉とは裏腹に優しい響き。

 見慣れた天井。

 ああ、ここはわたしの部屋か……。
 晩秋の……雨。

「ん……涼夏、泣いて……る?」

 毛布を持ってきた彼がつぶやく。
 わたしは突然、起きあがり、彼を抱きしめる。

「ぉわ!!」

 わたしは彼を抱きしめたまま、もといたベッドに倒れ込んだ。
 彼の耳元でつぶやいた。

「明信……怖い……夢を見たんだ……」

 それを聞いた彼は、わたしの頭を優しく撫でながら囁いた。

「……涼夏……俺、そばにいるから」

 ありがとう、確かわたしはそう言ったはずだ。
 しかし定かではない。

 その時、すでに彼の胸の中でわたしはまた……まどろんでいたのだから。

END


[1/氷の勲章]へ戻る
[2/怯える兎]へ戻る
=涼夏の物語= topに戻る
topに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送