それ以来、わたしは彼の夢は見なくなった。
代わりに、沼に浸かる夢を見るようになった。
周りは重く垂れ込めた雲と、荒涼とした地平。
そしてそれらさえも覆い隠そうとするような、深い闇。
そこにぽっかりと穿たれた漆黒の穴のような沼。
身も凍るほど冷たい。
わたしは最初、足首まで浸かっていた。
毎日少しずつ、沈んでいくのが解った。
だが、そこから逃げ出そうと言う気は起こらなかった。
中学卒業の頃。わたしはそれまでずっと委員長を歴任し、その時には生徒会長だった。
だが、それは、わたしにとってただの蔑称だった。
進路指導で担任の先生は、わたしを褒め称えた。
「あなたはどんな有名私立高校にでも入れる成績よ」
別に上の高校を狙って、勉強していたわけではない。
ただ、この現実から逃げるためにしていたのだから。
わたしはもう疲れていた。
卒業してもまた、高校で酷い目に遭うのだろう。
もう友達も恋愛も必要ない。
わたしに必要なのは、勉強だけ。平穏に静かに勉強が出来ればそれでいい。
不必要に競争しても、また軋轢が生まれ、さらに疲れるだけだ。
「近くで通える範囲の公立が良いです」
先生はしきりに残念がったが、わたしは知っていた。
この人はわたしの成績しか見てない人だと。
人間は信用できない生き物だ。私も含めて。
もう、わたしは他人になんの感情も露わさない人間になっていた。
事務的な言葉しか吐かず、誰とも普通に話すことはなかった。
その時、わたしは冷たい闇に腰まで浸食されていた。
これで、いい。これで、いいんだ。
このまま、わたしは闇に呑まれてしまうのを待つんだ。
そうすれば、楽になれる……。
やがて、わたしは家から比較的近い高校に入学した。
クラスの自己紹介で言った。
「わたしには、近づかないで欲しい」
わたしは闇の沼に飲み込まれるまでは、やはり素直に正直に生きたいと思った。
氷の勲章が教えてくれた最初の強さが、まだ鈍い光を発していた。
でも、もう誰も、決して傷つけたくはない。
怯えた兎が物語った悲しみを、心に刻みつけていた。
だから、誰もわたしに近づかないで欲しい、と思った。
わたしの言葉は水晶で出来た鋭利な剣だから。
クラスのみんなは唖然とした。
ただひとり、わたしを哀しそうな瞳で見た男子がいた。
もう、部活には入らなかった。相変わらず、委員長にはなったが、それも人を遠ざけるために過ぎなかった。
それでも最初のうちはクラスの女子たちが、わたしを何かと放課後の遊びに誘って来た。
だが、君たちにはそんな暇はないはずだと言うと、二度と誘ってくることはなかった。
いわゆるクラスの輪からは完全に外れており、誰からも無視されていた。
だが、さすがに積極的ないじめはなかった。そこはやはり高校生。
みんな、少しは大人になっていたと言うことか。
平穏に静かに、しかし、確実に闇に飲まれていく日々。
すでに、沼はわたしの顎の下まで来ていた。
完全に飲み込まれた時、“わたし”はいなくなるのだろう。
ただの有機的な機械に変わるのだ。
しかし。
どこかで……何か違和感があった。
そう、あの男子。あの哀しそうな瞳。
確か……変わった名字の……そう、風光(かざみつ)。
風光明信(あきのぶ)だ。
彼は名字以外、特に変わった男ではなかった。
どこにでもいるような普通の男子。
勉強もそこそこ、スポーツもそこそこ。顔も背丈も本当に普通だ。
わたしは、気になっていた。
あの時、なぜ、わたしを哀しい目で見たのか。
それが聞きたくて、彼を注目するようになった。
今度は慎重に、傷つけないように話すためだ。
彼はクラスの内外を問わず、誰とでもすぐ打ち解け、男子も女子も、先生さえ区別なく、バカ話をしては笑わせていた。
だが、決して誰かを貶めたり、陰口を叩いたり、嘘を言ったりはしなかった。
約束を破ったと言う話も、聞いたことがなかった。
何か失敗をした者には、その人に合ったフォローをさりげなくしていた。
言葉は羽のように軽い。だが、それは羽毛のように確実にみんなの心に暖かさを与えていた。女子には隠れファンも多いらしい。
そういう男なのか……。
梅雨の時期。今にも雨が降り出しそうだった。
わたしは真意を聞くため、彼を学校の裏庭に呼び出した。
「委員長が俺に話って珍しいなぁ。なに?」
軽い口調で聞いてくる。わたしは、聞いた。
「クラスの自己紹介……覚えているか?」
「俺、委員長になんか言ったっけ?」
「そうではない。……わたしの言葉だ」
「……ん、まあ」
「どう思った?」
「お……っと。さすが委員長だなぁ、バレてたか……」
少し声のトーンを落として、続ける。
「うん、そだな……正直……哀しいこと、言う子だなって思った」
「やはり、そうか……」
「……あー、委員長さ、今のまんまじゃ、もたねぇんじゃねーの?」
ふいに、わたしの心に少し変化が訪れた。
誰も言ってくれなかった、言葉。
「今まで委員長に何があったか解んないけどさ、んー、きっと、昔のことはもういいんだよ。忘れても」
わたしの闇の世界に、一条の光が射した。
「赦してやれよ。自分を、さ」
その言葉が漆黒の沼を照らし出した。
わたしを浸食していたその正体。
それは濁った氷の勲章を胸につけ、怯えた兎の目をした……
わたし自身だった。
「解った……もういい。戻れ」
横を向いて、それだけ言うのが精一杯だった。
わたしは全身が熱くなるのを感じていた。
感情……それは、ある感情のせいだった。
「おう、んじゃな〜」
いつものように軽く言って、手をひらひらと蝶のように振りながら彼は戻っていった。
わたしはそれを横目で見て……
降り出した雨の中、独り佇んでいた。
目を瞑って、顔を空に向ける。優しく暖かい雨だった。
顔に流れるそれが……涙だと気が付くのに少し時間が掛かった。
もしかしたら少し、笑っていたかも知れない。
心の中には、もう闇は無かった。
よく晴れた夏の緑輝く草原が広がっていた。
……
……
……ああ……
雨の音。
「おい、寝てるのか……?」
聞き慣れた声。
「しょうがないなぁ。自分から定例勉強会だとか言っといて、寝るのかよ」
言葉とは裏腹に優しい響き。
見慣れた天井。
ああ、ここはわたしの部屋か……。
晩秋の……雨。
「ん……涼夏、泣いて……る?」
毛布を持ってきた彼がつぶやく。
わたしは突然、起きあがり、彼を抱きしめる。
「ぉわ!!」
わたしは彼を抱きしめたまま、もといたベッドに倒れ込んだ。
彼の耳元でつぶやいた。
「明信……怖い……夢を見たんだ……」
それを聞いた彼は、わたしの頭を優しく撫でながら囁いた。
「……涼夏……俺、そばにいるから」
ありがとう、確かわたしはそう言ったはずだ。
しかし定かではない。
その時、すでに彼の胸の中でわたしはまた……まどろんでいたのだから。
END
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