彼が帰ってから、わたしは自分の机でいつもの予習復習をこなし、ひと息ついていた。
「うーむ……少し暑いな」
さっき着替えた黒いシャツの第二、第三ボタンを連続して開ける。
シャツの胸元をつまんでパタパタと中へ風を送ったとき、乳房の谷間が見えた。
「……男子の間では、胸の大きさがその女子の価値判断に大きく関わる、か……」
そんな、ふゆなちゃんの言葉を思い出した。
つまり、おおよその男子は大きい胸が好きだと解釈できるわけだ。
果たして彼もそうなのだろうか。
「一度、彼に聞いておかなければならない事項だな」
そう思いながら、ふと、彼のいた場所を見下ろした。
五十センチ四方の、それなりに使っている普通のクッション。
彼のために用意した席。今日、彼が座った場所。
そう思うと微妙に鼓動が早くなる。
わたしは何かいけない事をするような気持ちで、ゆっくりと、そこに移動して。
おずおずと、腰を下ろしてみた。
何故か、普段より座り心地が良くなっているような気がする。
クッションにそんな変化があるはずはないのだけれど。
「ふむ……」
これはたぶん、数時間前まで“彼がここにいた”という事実に対して、わたしが少し幸せを感じているという事だろう。
くすぐったいような、泣きたいような。
そんな感覚がする。
「これも、恋……か……」
しばらくクッションを撫でるようにして、その甘い気分に浸ってしまう。
何気なく、机の上にある小さなデジタル時計が目に入る。
午後九時。
そろそろ、お風呂の時間だな。
明信君は今頃、家でくつろいでいるのだろうか。
彼が帰り際に言った“アルバイトに行く”という言葉に反応して、思わず口から飛び出してしまった言葉が頭をよぎる。
“行ってらっしゃい”
「あれは、なぜ……口にしてしまったのだろう」
そっと自分の唇に指を当てた。
口にした理由そのものは解っている。
彼にも言ったように、言葉にしてみたかったからだ。
妻が夫を送り出すような、そんな気持ちを。
ただ不思議なのはそう思った瞬間に、もうそれが口から出ていた事だ。
やはり、彼と二人きりという状況がそうさせたのか。
「む……」
頬が熱い。さっきより身体が火照っている。
わたしはガラステーブルに向き直り、顔を横にしてうつぶせた。
ガラス面に頬を付ける。眼鏡のフレームが軽く当たって、硬質で小さい音を立てた。
「ふぅ……」
冷たさが心地良い。
目を閉じた。
彼の顔を思い浮かべる。
「誰もいないこの家に彼を誘ったのは、やや大胆過ぎたかも知れないな……」
特に身の危険を考えずに呼んだが、よく考えると、まるで襲って下さいと言っているようなものじゃないか?
もちろん、彼がいきなりそんな事はしないだろうと思うからこそ、招いたのだが。
それに彼も節度を持ってちゃんと勉強していたし、また、休憩は休憩で教室にいる時と同様、普通に楽しく会話した。
やや、わたしの発言には性的な言葉もあったが、だからといってそれで彼が興奮して、わたしを求めたりするような行動はなかった。
……しかし。
もし彼がわたしを求めるのならば、やぶさかではないが……。
やはりまだ怖い、とも思う。
「ふーむ。わたしもまだ、心の準備が出来てないな」
そう言えば、今日の彼はずっと熱っぽかった上に、相当ぼんやりともしていた。
風邪などではないのなら何故、と思ったが……。
あれは要するに彼もまた、わたしを強く意識していた、という事だろう。
確か、ここのところ男子を知るために読んでいる本にも書いてあった。
いわゆる“青年男子特有の激しい性衝動”というものを我慢していた、のかも知れない。
うむ。彼は性的な事には真面目で奥手なのだから、きっとそうなのだろう。
「ふふ……可愛い人だ」
思わず、笑みがこぼれる。
そうだ、性的な事だけではない。
あの手紙を見つけられて慌てる姿は抱きしめたいくらいだった。
「そう言えば、あの手紙……」
あれには阿部さんがわたしの事を好きだと、真摯にしっかりと書いていた。字も上手だった。
わたしが女子に好意を寄せられるのは今に始まった事ではない。
しかし、もうわたしが明信君と交際しているにも関わらず、わたしを賭けて彼に勝負を挑むとは思わなかった。
確かに、なかなか気骨のある子だとは思う。嫌いなタイプではない。
容姿も可愛らしいし、声もわたしと違って、女の子らしい甘さを持ったソプラノだ。
だが、やはりわたしは明信君が好きだ。彼女には悪いけれど。
明信君には少し脅かすような事を言ってしまったが、彼が負けるはずがない。
確信があった。
そう、あのクッキーの味。
プロ並みだったのは道理だ。アルバイトで経験を積んでいるのだから。
あれにかけてあったリボンは、今は大事に箱に入れてしまってある。
「む、そうか。明日はまた、彼の作った別のものが食べられるという事だな。ふふ……楽しみだ」
わたしは口元をほころばせながら、立ち上がった。
クローゼットへ行き、替えの下着とパジャマを手に取る。
上機嫌で部屋を出ると、一階のバスルームに向かった。
「ただいまー。お、いい匂い。こりゃ今日は唐揚げだな」
俺は自分の家に帰っていた。ただし、一人じゃない。『スーヴェニール』の店長と一緒に、だ。
どうやら、今日は親父と一杯やる約束があったらしい。
店長はウチの玄関に、低くていい声を響かせた。まるで洋画の吹き替えみたいだ。
「こんばんは。アキ王子はぼくの完璧な護衛によって無事ご帰還いたしました。さ、どうぞ」
執事のような手振りで、俺を中へ招き入れた。
店長は別に酔ってるわけじゃない。普段からこんなテンションなんだ。
俺は真っ赤になって吹き出した。
「ぶほッ! 俺のこと、王子とかバカじゃないの!」
「ほっほう。時給下げて欲しいのかなー? んんー?」
そんな恐ろしいことを言いながら俺の首に腕を回し、ゲンコツをこめかみにグリグリと押しつける。
「あだだ! す、すみませ、あがぁーっ! あああ謝ってるじゃんよ! 放せよぉっ!」
俺、涙目。
店長、木暮 吾郎(こぐれ ごろう)さんはいつもこんな調子で。
本当に俺よりバカかも知れんと思う。
それでも、店のことになると真面目で、素晴らしい手際の良さと堅実かつ大胆な運営を見事にこなしている。
背が高く細身だが、実はけっこう筋肉質。短髪で、目は一重で細い。だがいつも笑っているような目つきなので取っつきやすい雰囲気だ。
昔は黒々とあごひげを生やしていたが、店の方針を喫茶メインからスィーツメインにするにあたって、全部キレイに剃り落とした。
おかげで十歳は若返って見える。爽やかと言ってもいいかも知れない。
年齢はハッキリとは知らないが、親父と同学年だったらしいから、四十二、三歳くらいだろう。
なんというか人懐こくて憎めない、兄貴みたいな感じだ。
「あらあら、まぁまぁ。木暮さん、いらっしゃい。どうぞー」
母さんが奥から出てきて、店長を招き入れた。
俺も後から続く。
「まだ、聡家(としいえ)さんは帰ってきてないのよ。ごめんなさいね。約束してらしたんでしょう。ほんとにもうあの人ときたら……」
聡家ってのは親父の名前だ。いつ聞いても立派で偉そうな感じがする。
でも、実際はいつもへらへらしてて、映画ばっかり見てる。
頼りなくて、家のことなんか母さんがいなけりゃ何もできない。
名前負けってこのことかな、とか思ったり。
母さんの軽い愚痴を聞きながら、リビングに入ると。
「いよゥ! 吾郎! 先にやってるぜィ」
つるりと光るキレイに剃り上げられた頭が目に飛び込んでくる。
快活そうに、皿に盛られた鳥唐揚げをビールといっしょに頬張っていた。
真浄 和頴(しんじょう わえい)さんだ。
この人も親父のふるくからの親友で、三人はこの辺じゃ有名なバカトリオだったらしい。
和頴さんは、近所にある真浄寺の次期住職だ。
背は百七十センチくらい。見るからに体育会系のがっしりした体格。眉が太く目がぎょろりと大きい。
あの有名なファンタジー映画に出てくる種族、ドワーフって感じ。
だが、見た目と違ってゲームやパソコンにも強いらしい。最近は寺のホームページを立ち上げたという。
店長がリビングテーブルにいる和頴さんの隣に座りながら、その頭を撫でる。
「和頴君は今日も一段と輝いているね。ぼくはね、いつもこの美しいツヤにメロメロなんだよ」
「だァからやめろって! 男に撫でられても気持ち悪ィだけだろが」
店長はその言葉で火が点いたのか、ニンマリと笑った。地獄の笑みだ。
「ほっほう。そんな事を言わせるのは、この頭ですかー?」
両手を使って、揉むように撫で繰り回し始めた。
「うわぅおひェーッ!」
和頴さんがこの世のものとは思えない奇声を発した。心底、気持ち悪いのだろう。
俺は呆れながら、二人を横目に自室へ向かった。
はぁ……。なんで俺の知ってる大人の男はバカばっかりなんだろ。
俺は着替えて、飯を食うためにリビングへ戻った。
リビングテーブルを見ると、バカトリオの全員が揃っていた。つまり、親父が帰ってたんだ。
親父は、この三人の中では一番普通だ。普通の会社で普通に仕事をしている。
中肉中背で、顔も十人並み。髪は俺にもちょっとだけ遺伝している、天然パーマ。額を出してキレイに切りそろえてある。
趣味の映画鑑賞以外、これといって特技もない。スケベでいいかげん。明るいのだけが取り柄といえば取り柄。
母さんと親父は恋愛結婚だったらしいけど、何を気に入ったんだろ。
テーブルにはちゃっかり、ふゆなもいる。
ヤツはちょんまげみたいな高い位置にあるポニーテイルを揺らしながら、苺ショートを旨そうに食べていた。
店長が持ってきてくれたお土産で『スーヴェニール』特製の品だ。
さすがに食い物と金になる話の探知能力は並はずれている。
コイツは一生、食いっぱぐれることはないだろう。
親父が俺を見つけて、喜んだ。
「お、今日の主役が来たな! まあ、一杯どうだ、コーラがいいか? オレンジジュースもあるぞ」
強引にコップを手に持たされ、勝手にコーラを注がれる。
「あ、え? なんだ、なんのこと?」
三バカのメンツが俺を見て、ニヤニヤと含み笑いをした。ちょっとマジで気持ち悪いんだけど。
親父がいつものわざとらしい咳払いをした。
「ふゆなに聞いたぞ。例の眼鏡美人の委員長と付き合いだしたんだろう? 正直に白状しろ」
一瞬にして、俺の頬が熱くなった。
俺はふゆなに目を向け、睨み付ける。
ふゆなは、涼夏以上に涼しい顔で無視した。
コイツめ……あとでぜってー泣かす。
店長がそんな俺たちの間に入ってくる。
「いやぁ、ぼくたちもさっき初めて聞いたんだけどね。君、冷たいよ。いつもそばにいるこのぼくにさえ、話してくれないなんて」
俺はしどろもどろになりながら、返答する。
「いや、別にそんな、取り立てていうようなことじゃないっスから、俺の個人的なことで、その、店にはあんま、関係ないですし」
母さんが後ろから声を掛けてきた。手にはたぶん追加の、大盛りごぼうサラダを持っている。
「あらぁ、母さんだって知りたかったわぁ。家族にも関係ないなんていうの? まあ、なんて薄情な息子でしょう」
こっちもわざとらしく泣き真似をして、大皿をテーブルに置いた。
うぐ……こんなときだけ、似た者夫婦なんだから。
店長がみんなの取り皿に、サラダを慣れた手つきで等分に盛っていく。基本的にこういうことが好きな人なんだよな。
和頴さんが一番に箸を付けて、旨い、と言った。そのまま、言葉を続ける。
「明信よ、なんか困ったことがあったら、俺たちに言え。もちろん、この聡家に真っ先に言うのが大前提だがな!」
俺はコップのコーラに目を落とした。
「いや、そんな、大人のひとに迷惑かけらんないですよ」
和頴さんが大笑いした。
「はっはっはっ! ばかやろう! 大人にゃ大人にしかできねェことがあるンだよ! 頼れるときは頼れ。なんでも一人で出来るハズねェんだからな!」
店長も、親指を立ててウィンク。
俺は鳥のようにちょっとだけ頭を下げた。
「はい、ありがとうございます」
親父がうなずいた。
「よし! じゃあ、いよいよ大航海時代に突入した信明のために! 乾杯!」
「かんぱーい!」
みんな、それぞれが手に持ったコップを軽く当て合った。小気味良い音が鳴り響いた。
ちぇっ! なんだよ、ホントに俺の周りにいる大人の男はバカばっかりだぜ。
でも。
すごくいいひとばっかりだ。
俺はコーラを一気に飲んだ。ちょっとしょっぱい気がした。
午後九時。
俺は嫌がるふゆなを連れて、いわゆる大人――アダルティな話が始まった宴会から抜けた。
大人のメンバーは引き留めようとしたが断った。てか、母さんまで残念そうだったのはどういうことだ。
いや、そりゃ俺だって嫌いじゃないけど、なんかそういうのに興味あるよって顔で大人の中にいたら、恥ずかしいじゃん。
俺は、ふゆなの部屋の前で命令した。
「さあ、おまえも風呂入って寝ろ」
妹は、何を言ってるんだ、という顔をした。
「まだ九時じゃん! 夜はこれからだよ」
「いや、もう九時だ。中学生は寝る時間だ」
彼女は半笑いで、肩をすくめた。
「は! いつの時代の化石ですか。ま、高校生のお子ちゃまこそ、早くお寝んねなさって下さいな」
「てめ……!」
俺が叱り飛ばそうとした瞬間、ふゆなは素早く自室に退避した。
「おやちゅみー」
ヤツの部屋の中から、嫌味な挨拶が聞こえてきた。く! 今度ぜってー泣かしてやる! 昔みたいに。
俺は自室に戻った。
ベッドに倒れ込む。
なんだか疲れた。主にふゆなの相手が、だけど。
俺は伸びをした。
「うーん……ぷはぁ。なーんか、今日は嬉しいことがいっぱいあった、いい日だったなぁ……」
俺はとりとめもなく色々と思い出した。
涼夏とふたりきりで勉強会。
俺、かなり緊張してたの、ありゃあ気付かれてたな……。
しっかし、素であの言葉、陰茎とか言っちゃうし、もう、涼夏は天然由来の成分が多すぎるよ。
“行ってらっしゃい”
かぁ……もし一緒に暮らすとしたら、あんな風に毎日、送り出してくれるんだろうな……。
一緒に暮らす……結婚?! いや、同棲とか?!
いやいやいや! すっげドキドキするんだけど! うわーうわー!
ベッドでひとり、ゴロゴロとのたうった。
あ、そーいえば、阿部さん。まさか涼夏のことが好きだなんてなぁ。
涼夏もまんざらじゃない感じだったし。てか、涼夏は恋愛に、あれほど自由な考え持ってたんだ。知らなかったぜ。
マジでうかうかしてらんねーな。俺も良いトコ見せていかないと。
悪いけど阿部さん。俺、本気で掛かるからな。
今頃、涼夏は何してるのかな……やっぱ、勉強? それとも風呂かな……。
俺の頭の中に、裸の涼夏がベッドの上で抱き枕を両足に挟み、腕を絡めて寝転がっている絵が浮かんだ。
俺の股間がすぐさま反応した。
ヤベ……。
気持ちが収まらなくなった俺はベッドから降りて、出入り口のドアに鍵を掛けて戻った。ふゆな対策である。
そうやって俺は夏掛け布団の中で下半身を晒すと、ベッドの上から妄想の海に思いっきりダイブしたのだった。
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