[其ノ三]
「うう、寒い。やっぱ、寝起きが暑かったからって、Tシャツとパンツだけで、ここまで来たのは失敗か」
信人はぼやきながら、男湯のまるで銭湯のように広い脱衣所で、服を脱いでいた。
汗で濡れた下着は、隅にある洗濯機に放り込んだ。彼の洗濯物は、彼自身が洗うと決めていた。
彼は出来る限り、自分のことは自分でやる主義にしていた。
タオルで前を隠し、風呂場への引き戸を開ける。
そこはまさに、温泉旅館の露天風呂だった。
高い垣根のあるほうに、三カ所ほどの洗い場。垣根の向こうは女湯だろう。
反対側に岩に囲まれた湯船。その周りは日本庭園のように整備されていた。
彼は、足早に湯船に向かった。
「うぉ熱ッ!」
片足を湯に突っ込んで、すぐさま、叫んだ。
「やっぱ、掛け湯して入ろう」
片ひざを突いて、桶を取る。
湯を掬い、そろそろと肩口から掛けた。
「ん! ……」
今度は我慢できる熱さだったようだ。
「よし!」
もう一度、湯を掬うと、頭から勢いよく被った。
「くわぁ!」
奇声を上げた。
信人は、立ち上がって湯船に足を浸ける。
軽く頷いて、ゆっくり入った。
肩まで湯に浸かって、気持ち良さを声で表した。
「あぁあー……」
しばらく、月をぼんやり、見ていた。
すると、脱衣所から人の気配があった。
「ん……ま、まさか、空? いや、華か?」
焦ったのか、立ち上がって、きょろきょろと辺りを見回す。
桶を手にとって局部を隠した。どうやら、タオルでは、不都合になったらしい。
戸に背を向けながら、湯船の真ん中あたりまで逃げていく。
引き戸が開く音がした。
「マジかよ、ヤバイって!」
さらに端のほうまで逃げた。
一瞬、誰かが飛び込んだかのような、激しい水音が響いた。
信人は振り向く暇もなく、後ろから太い腕で、首を絞め上げられた。プロレス技のように、ロックされている。
彼は一瞬、慌てたが、すぐさま手に持っている桶を振り上げ、後ろを攻撃した。
乾いた木の音が響く。
腕の力が緩んだ。
素早く、その腕を取りねじり上げようとした。が、びくともしなかった。
後ろから聞き慣れた声がした。信綱だった。
「わしが敵じゃったら、死んでおるぞ」
信綱が腕を外すと、信人は振り向いて、抗議した。
「げほっ! な、何もこんなトコで、そんな事、やんなくてもいいだろ!」
信綱は、その老人とは思えない肉体を誇示するかのように、無意味にポーズをつけた。
ぐぐっ、と大胸筋と上腕二頭筋が盛り上がる。
「うつけ者! 敵は、相手が一番無防備になる瞬間を狙ってくるのじゃ! 気を付けぃ!」
信人は、聞き流すように背を向けて、湯船に浸かった。
「あー、はいはい。でも、空たちがいるから大丈夫だろ」
老人は、軽くため息を吐いた。
「確かにそうじゃ。じゃが、自分のことは自分でやる主義ではなかったのかのう?」
信人は、冷静に反論した。
「でも、そんなの、俺の出来る範囲、超えてるじゃねぇか」
信綱は、あごひげを引っ張るように撫で、笑った。
「じゃが、さっきの対応は、なかなか筋が良かったぞ」
「……知らねぇよ」
信綱は、そばに寄って信人の頭に手を乗せた。
「なんだよ、もう」
「信人。わしの背中を流してくれんか? ん?」
信人は、わざとらしい溜息を吐くと、無言で立ち上がった。
ふたりは洗い場に向かった。
「空ちゃんは、小さくて可愛いよねぇ」
華は、空の背後からつぶやく。
空の背丈は、どう見ても高校生には見えない。
「うりゃ!」
大きな水音を立てて、空の胸を鷲づかみにした。
「こっちも小さいけど……感度はどうかなぁ?」
空は、ややうつむいて、身をよじった。
「う……やめろ」
武田本家の大浴場は露天風呂だ。
明るく輝く月が、ふたりのきれいな裸身を、湯船の中にきらめかせている。
ふたりが信人を守るためには、一番近い場所にいるべきだ。
しかし、男湯に一緒に入ることは拒否された。
そこで、女湯に入りつつ、警護することにした。
「うふふ、感じる?」
華はさらに空の胸を揉みしだいた。
「ふぁぁっ!」
一瞬、空のややエロティックなあえぎが、響く。
だが、すぐ冷静に戻った。
「いいかげんに、しろ!」
空は後頭部で、華に頭突きを喰らわせた。
鈍い音。
「痛たーい!」
華は自分の鼻を両手で押さえて、うめいた。
空は、華の前から離れる。
「自業自得だ」
あまり声にも表情にも、感情は出さないが、それでも、怒気を孕んでいる声だった。
華は、泣き真似をした。
「うぇーん、空ちゃん、ひどい……」
空は、それを無視し、話し掛ける。
「華……おまえとは長いな……」
華がちょっと、真面目な顔で空を見た。
「なに、急に?」
身体の前にタオルをかけて、空のそばに戻る。
「……また、信秀サマを、守れなかったこと?」
空は無言で頷いた。
「だって、しょうがないじゃない。空ちゃんもまだ、子供だったんだし」
華が空の頭を撫でる。
「あたしはまだ、お山に居たしね」
空がこつん、と華の肩に頭を乗せた。
「わたしは……あの時、若を守ることだけで精一杯だった……」
長いため息。
「だから、わたしはまた山に戻ったんだ」
華は、空の頭を撫でながら頷く。
そして空の声色を真似て、ちょっとおどけるように言った。
「せめて、若だけは守り通す、か。三年間、いつも言ってたね」
空は口元だけ、笑った。
「あの頃は、まだ、迅舞の諒(じんぶのりょう)……いや、今はリョウコさんか。彼女が若を守っていたからな」
ふたりとも、やや暗い顔になる。
湯が風に揺れ、湯気が巻き上がった。
華が口を開く。
「リョウコさんか……あんなことがなかったら、今でもあたし達と一緒に……」
空は、華の肩から頭を上げ、激しく水音を立てながら、数回、顔を洗う。
濡れた顔を上げ、目をつむる。
「若を守る、と言うことはそう言うことだ」
華は、一瞬、息が詰まった。
だが、わざと明るく言い返した。
「でも、今はお店で元気に働いてるじゃん。リョウコさんは、けっこうああいうの、向いてるかも」
空は微笑んで、湯船の縁の岩に背中を預けた。
「うん……そうだな、命は落とさなかった。朱音(あかね)の攻撃を受けても。さすがだよ」
華が、空の顔を覗き込むように見た。
「若サマの見た夢って……朱音、だよね」
空はその目を見返した。
「だろうな。朱音の術のせいで、記憶はあやふやになっているみたいだが」
声にはやや、怒りが込められている。
華が顔を戻し、空と同じ姿勢になった。
「朱音……なんで若サマを殺そうとしたんだろ……どこに行ったんだろ」
空はゆっくりまばたきをし、月を見上げた。
「わたしたちが、あれほど捜して見つからなかったのだから、残る可能性は、どこかに匿われていると言う事だけだ」
華が、ぴくり、と反応した。
「まさか、上須義……? でも、みんな、幾度も調べたよ?」
空は冷静に、答える。
「掃討戦の時、敵対企業を潰したが、その時、上須義の手引きがあった、という確たる証拠は何も出なかったじゃないか」
華は、言葉を無くした。空は続けた。
「上須義は……少なくとも隠蔽に関しては、わたしたちより長けている」
空がタオルを前に掛け、湯船から立ち上がった。
「もうすぐ上須義は、姉さん……朱音を使って若を狙ってくる。今度こそ仕留める為に」
低い声でつぶやくと、華を振り返り、手を差し伸べる。
「若を、守ろう。命に代えても」
華は、その手を取って立ち上がった。
「当然! みんなもいるしね!」
空は微笑んで、誰もいない庭に向かって声を掛けた。
「みんなも入るか?」
するとどこからともなく、ゴスロリに身を包んだ少女達が現れた。
中のひとりが一歩前に出て、頭を下げる。
「お言葉に甘えさせて頂きます」
幾つものゴスロリ服が、一斉に月に舞った。
次の瞬間、嬌声を上げる裸の少女達が、湯船に飛び込んでいった。
みんなが、空に湯を浴びせる。
「や、やめろ! はしゃぎ過ぎだぞ!」
誰も、聞いていない。しぶきが飛び散り、きらきらと輝く。
華は、そのようすを優しく見守っていた。
「ま、若サマの周りには、式も飛んでるし、お館サマもいるから大丈夫よね」
見上げた月には、徐々に雲が掛かり始めていた。
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