[其ノ四]
「いつ見ても、すごいな……」
信人は、信綱の背中をタオルでこすり始めた。
その隆々たる背面が、雲の切れ間からの月明かりに、浮かび上がる。
そこには、数え切れないくらいの、古い刀傷があった。
「まあ、わしも昔は、色々あったからのぅ」
そう言いながら、からからと笑う。
信人も一緒に、少し笑う。
「そう言やさ、聞きたいことがあるんだけど」
信綱は何かを察したのか、鋭い動きで、顔を後ろに向けた。
「そうか! 苦無衆の服装の事じゃろう? うむ、あれは、わしの趣味じゃ。以前のメイド忍者も良いが、ゴスロリのくのいちのほうが、より萌え萌えじゃろう? うん?」
信人は、ぽかーんと、口を開けた。
だが、すぐ我に返った。
「じいさんの趣味だったのかよ! しかも、萌え萌えって、一体どこで覚えてきたんだよ! てか、違うよ!」
信綱は、立ち上がって、にやにやと、あごひげをさする。
「ほう、ならばわしの武勇伝が聞きたいか! そうかそうか! あれは今から十数年前……」
今にも朗々と話し出しそうになった信綱に、信人は、ぴしゃりと告げた。
「聞き飽きたから。旧友の娘を救ったとか、昔の有名な女優と恋に落ちたけど、でも、ばあさんを選んだとか、そんな話、もう、たくさんだから」
信綱が、肩を落とす。
「ちぇっ、冷たい孫じゃのぅ」
「ちぇっ、て。子供じゃないんだから」
「ふん。まあ、良いわ。で、何じゃ?」
信人は少し、うつむいて話し出す。
「最近、悪い夢を見るんだ……」
信綱の白く長い眉毛が、ぴくりと揺れた。
「ふむ……話してみなさい」
信人は、さっき見た夢の話を始めた。
信綱は、聞き終えてしばらく沈黙した。
やがて、目を閉じ、口を開く。
「……まず、始めのほうは、実際にあった事じゃ。お前も覚えておるじゃろう」
父である信秀の死。
自分を守った幼い娘。
信人の身体が震えた。それは、寒さから、だけではないだろう。
「あの時、俺を守ってくれた女の子は……空、なのか」
信綱は腕を組み、軽く頷いた。
「そうじゃ。空は、“山”の中にあって、最も優秀な忍じゃ。それ故、ここに来させたのじゃ」
信人は反射的に聞いた。
「“山”って……?」
老人は、大きなため息と共に、どっかりと風呂用の椅子に座った。
「わしは……当時の弱体化した苦無衆では、武田の家を守れないと判断し、新しい苦無衆を作るため、忍の養成所を作っておった。それが“山”じゃ」
からんをひねり、桶に湯を貯め始める信綱。
「当然、信秀は激しく反対した。じゃが……わしには、何か嫌な予感めいたものがあったのじゃよ……」
その揺れる水面を眺めながら、つぶやいた。
「悪い予感は当たった。あの日が空の初任務じゃった……あの子は、お前を守るだけで精一杯じゃった」
老人は、涙声を絞り出した。
「わしが、もう少し早く帰っておれば……」
桶から、湯が溢れ出した。
信人は、急に小さく見えた背中に、手を乗せた。
「じいさん……」
信綱は、湯を止め、それを頭から被った。
熱い湯と共に、何もかも洗い流すかのようだった。
桶を置くと、再び、口を開いた。
「話が逸れたな。お前の夢の続きじゃが……」
信綱は、信人を振り返る。
眉の下から厳しい光を放った。
信人は、一瞬、びくり、とした。
「その女は、空ではない。空は、信秀を守れなかった事に責任を感じ、再修行のために、山に戻ったからの」
「じゃあ、誰なんだ? 華なのか」
老人は首を横に振った。
「いや、違う」
からんのほうに向き直って、信綱は、また、湯を桶に注ぎ始めた。
「その白面たちを倒すようすは、掃討戦ではない。掃討戦についてはお前は、わしから話を聞いただけじゃ」
信人は、反論しようとしたが、すぐ、老人の手で制された。
「解っておる。あまりに鮮明じゃった、とても夢に思えない……そう……お前を残党狩りに連れ出した者がいたのじゃ」
「残党狩り……?」
信人は混乱した。
「え、だって、俺、そんなの全然覚えてないぜ」
信綱は桶の中を見据えた。
「当然じゃな……その記憶は、わしが封印したのじゃから」
唖然とする信人。
老人は続ける。
「じゃが、それでもお前は、高校生になる時、家を出てしもうたがの……ぬ、いかんいかん。歳をとると話が逸れがちになる」
桶の湯を止めて、持つ。
そのまま、立ち上がった。
「ほれ、冷えたじゃろ」
信人の肩口から、緩やかに湯を掛けた。
「お前は、その時のショックで精神状態を保てなくなった。それ故、わしはその記憶を封じたのじゃ」
じわりと、信人の肩が赤くなった。
「……俺を、その残党狩りに連れ出したのは、誰なんだ……?」
湯気が、信人の足元から立ち上る。
その向こうから、老人の哀しみと怒りが混じり合う、瞳の輝きが見える。
「空の姉……傀儡の朱音(くぐつのあかね)じゃ」
その名前を信人は、思い出した。
次の瞬間、断片的で凄惨な記憶が、蘇った。
遠い、声。
『あなたの望みは何?』
襲いかかる赤い眼。
『あたしだけのもの!』
見知らぬ苦無衆の誰かが、盾になって血まみれになる。
『なぜ、裏切った?』
響く嗤い声。
『裏切ってなど!』
身体にまとわりつく血、血、血……。
「あ、あぁぁぁぁあッ!」
信人は大きく吼えた。
信綱を睨むと、超人的な動きで襲いかかる。
信綱は叫んだ。
「しまった! 朱音め、キーワードまで仕掛けてッ! しっかりしろ! 信人ぉぉぉっ!」
普段の彼からは、考えられない激しい拳の連打。
それをなんとか、避け続ける。
だが、一瞬の隙を突いて、信綱のあごに、拳がクリーンヒットした。
「むぅ……ッ!」
よろめく信綱。
そこに、一陣の風が吹いた。
空、華、そして苦無衆の面々だ。
すでにみんな、いつものゴシックロリータの服を身に纏っている。
信人のようすを見た空は、即座に他の者達に指示した。
「若を取り押さえる!」
少女達は散開し、彼を囲んだ。
信人は、吼えながら高く跳躍し、その包囲網を抜けた。
華がその動きを目で追いながら、驚いた。
「マジでっ?」
そのまま、彼は壁を蹴って三角跳びをし、華に襲いかかった。
「ひゃっ!」
華は、およそ忍者らしくない声を上げる。
顔を赤くしながら、その攻撃を回避した。
信人は見事に着地し、その体勢から素早い蹴りを、幾つも放ってきた。
華は、それを避けるだけで精一杯だった。
「若サマの! アレが! ぷらぷらしてるぅぅぅっ!」
どうも、別のことに気を取られているようだ。
他の苦無衆のひとりが、猛然と彼に向かって走り、腕を首に当てようとした。ラリアットだ。
だが、信人は素早くしゃがみ込み、それを避けた。
ラリアットを外された彼女は、バランスを崩し、風呂に頭から突っ込んだ。
入れ替わるように、信綱が背後から、押さえつけようとする。
「信人ぉぉぉっ!」
だが、その腕を的確なタイミングで掴み、一本背負いを決めた。
地響きにも似た音が響いた。
「ぬぉぉぉっ……」
腰を押えてうずくまる。
信人の周りを、距離を置いて、囲む苦無衆。
決め手が打てないようだ。
そこに、空の低く冷静な声が通った。
「若。おとなしくなさってください」
それに反応した信人が、獣のように突進してくる。
「若がそんな状態でなかったら、とても嬉しい状況なのですが」
空が華に、目配せをする。
華が頷き、針を信人に投げつけた。
「うぐぁっ!」
彼の走る勢いが一気に弱まる。
そのまま、信人は空の胸の中に、ゆっくりと倒れ込んだ。
「おやすみなさい。若」
信綱が、額を拭きながら、一息ついた。
「よく眠っておる。薬が効いたようじゃな……ありがとう、空、華。それとみんなも。しかし、我ながら、情けない。孫の事では、どうしても気が動転してしまうのぅ……」
空が微笑みかける。
「お館様は、若を愛しておられるのです。そう、わたしと同じくらい」
信人と空以外、みんなが一斉に、顔を赤らめた。
だが、我に返った華が異議を申し立てた。
「何よぅ! あ、あたしだってー! その! あ、あい……して……」
最後は、もはや聞き取れなかった。
信綱が、からからと笑った。
それに釣られて、みんな笑う。
「さて、そろそろ信人を部屋に戻してやらないと、凍死してしまうぞ」
信綱の言葉に、全員が一斉に応答した。
「御意!」
次の瞬間、信人と苦無衆は、その場から、かき消えていた。
独り残った信綱は腕を組み、つぶやいた。
「信人……すまん……。じゃが、まだ試練はこれからじゃ……。強く、強く生きてくれ……」
いつの間にか、月は完全に雲に隠れ、今にも雨が降り出しそうだった。
end
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