其ノ一
あの頃、わたしの家――つまり唐沢家にはそんな噂が立っていた。
ある日を境に、使用人が次々と不慮の事故で死んでいったためだ。
そんな陰鬱な日々が続く午後。
わたしが幼稚園から乳母と共に屋敷に帰った時。
階段の下で倒れている父に気が付いた。
「お父さん……なんでこんなところに寝てるの?」
わたしは疑問を持って、乳母を見上げた。
すると、彼女は階段の上のほうを恐ろしげな表情で見ていた。
わたしは釣られるように同じほうを見ると、姉の朱音が手摺りの向こうから静かな目で見下ろしていた。
「お父さんね、あんまりクーちゃんのこと好きだから、走って降りようとしたの。それで……」
父に目を戻してよく見ると、首がおかしな方向に曲がっており、口から血を吐いていた。
「お父さん……死んじゃった……の?」
朱音がゆっくりと降りてきた。
「そう、みたい」
乳母は後ずさった。
「そ、それではクーロエお嬢様、アカネお嬢様、失礼します」
それだけを言い残して、足早に去っていく。
わたしはその瞬間、何もかも失った気がして、その場で泣きわめいた。
朱音がそっとわたしを抱いてくれた。
「大丈夫。あたしがずっとそばにいるから。大丈夫……」
やがて、乳母も死に……ついには母が屋敷の庭にある池で溺れ死んだ。
そうやってわたしたち、幼い姉妹は二人きりになってしまった。
唐沢の家は崩壊したのだ。
親戚と名乗る人々がどこからともなく現れると、遺産を巡って薄汚い争いをした。
そんな中でわたしたちは、ただの取引材料にすぎなかった。
結局、わたしたちに残されるはずだった全財産を親戚たちが取り上げて再分配する事で、遺産相続は決着を見た。
それが法的にはどうなのかは解らない。いずれにせよ、その頃はわたしたちは何も知らなかったし、理解できていなかった。
財産のなくなったわたしたちは、もはや、ただの邪魔者でしかなかった。
それまで優しくしてくれた人も、手のひらを返したように邪険にした。
朱音はわたしが辛くて泣いていると、いつも必ずそばでわたしを慰めてくれた。
わたしたちは親戚中を散々たらい回しにされたあげく、最後にいた叔父の家からも見放された。
施設に預けられる事になったのだ。
だが、その前日。
「遅くなってすまん」
お館様が現れて、わたしたちに詫びた。
初めて見た彼は、それまでに見たどんな大人よりも大きくて、立派に見えた。
お館様――武田 信綱は父の旧友であり、また企業においては父の上司であった。
彼は叔父に言った。
「この子たちはワシが引き取る。異存はないな」
すると、卑屈な笑いを浮かべた叔父が答えた。
「はい、そりゃあ。でも、ここまでは私共が面倒を見ていたわけですし、ねぇ? お察しくださいよ」
お館様は彼を冷たい目で睨み付けた。
叔父はすくみ上がりながらも、下卑た笑いを崩さなかった。
お館様は懐から札束を取り出し、彼の足元に投げつけた。
「へ、へへ……ありがたいことで」
叔父はまるで犬のような姿勢でそれを拾った。
お館様が踵を返して、わたしたちに呼びかけた。
「さあ、行くぞ。クーロエ、アカネ」
わたしはその声の硬く冷たい、しかし、哀しみの籠もった響きに安心感のようなものを覚えた。
わたしたちは、ほんの少しだけ武田の屋敷にいた。
応接間でお館様を待っていると、和装の男性がうさぎのぬいぐるみを二体持って顔を隠しながら入ってきた。
「ヤア! サスガに双子ダ、良く似ているネ!」
裏声で話しかけたその人が、お館様の息子である信秀様だった。
うさぎのぬいぐるみをわたしたちにそれぞれ差し出す。
わたしは、それをおずおずと受け取ろうとした。
朱音がそれを制した。
信秀様は優しく笑って、わたしたちの目の高さにしゃがんだ。
「大丈夫だよ。これは君たちへのプレゼントだ」
朱音がわたしをかばうようにして、問う。
「なにが欲しいの? お金はないよ。身体? だったらあたしだけにして。クーは許してあげて」
信秀様は困ったように、哀しげに微笑んだ。
「これは本当にただのプレゼントだよ。なにも君たちからはもらわない。それに君のクーちゃんを取ったりしないから安心して欲しいな」
朱音はそれでも、睨むのをやめなかった。
信秀様は、両手にあるうさぎのぬいぐるみを見つめながら話した。
「わたしにも君たちと同じ歳の息子がいるんだ。信人といってね。だから、子供がどれほど大切か解ってるつもりだ」
その微笑みがわたしを癒してくれる気がした。
だが、朱音は全く彼を信用していなかった。わたしを自分に引き寄せる。
そこへ、お館様が戻ってきた。
「用意ができたぞ。これからおまえたちは“山”で暮らすことになる。行くぞ」
信秀様が立ち上がって、抗議した。
「お父さん。どうしてもこの子たちを“山”へ連れて行くんですか。まだこんなに幼いのに」
お館様は信秀様を冷たい瞳で見つめた。
「……幼いほうが良いのじゃ」
「お父さん! これは人権問題、いや犯罪ですよ! 児童虐待です! 解っているんですか」
「ならば、ワシを訴えるなりなんなりすれば良い。じゃが、ワシはやめんぞ。これはこの家の為じゃからな」
「お父さん……」
お館様はわたしたちの手を取って、部屋を出た。
わたしはその時、あのうさぎのぬいぐるみが欲しかったな、とだけ思っていた。
山での生活は、今思えば確かに厳しかったと言える。
ただ、それでもわたしはそういうものとして受け止めていた。他に生きる術を知らなかった。
山は言うなれば、ごく規模の小さい全寮制の女子校のようなものだった。
山で共に過ごしたみんな―― リョウコさんみたいな素晴らしい先輩や華のような良い仲間は、わたしにとって家族だった。
だが、本当の家族である姉の朱音は、みんなとは打ち解けず、わたしにだけ心を開いていた。
勉強と修行に明け暮れる日々は続いた。
そんなある日、お館様が実戦配備を行うために、試合をすると告げた。
それはある意味、卒業試験であった。
成績の優れた者が選ばれると聞いていた。
そしてそれはわたし――碧眼の空と、リョウコさん――迅舞の諒であった。
リョウコさんは最年長で、わたしは彼女に母のような感情を抱いていた。
その時が来れば、一番最初に実戦配備されると思われていた。
天井の高い忍のための道場で、わたしたちは闘った。
この試合は誰も観客のいない、仲間さえ見ていない殺試合(ころしあい)だった。
その持てる秘術を駆使して闘うのだから、それが仲間とはいえ、知られる事は危険を伴う。
それ故に試合う人間のみしかその場にはいなかった。
後で知った事だが、お館様だけはモニターを通じてそのようすを見ていた。
お互い、本当にボロボロになるまで戦った。
二人とも立っていられず、その場に俯せていた。
呼吸に合わせて、血が床にゆっくりと広がる。
結果、引き分けになるはずだった。
だがその時、リョウコさんは力を振り絞って、仰向けになった。
「まさか、このわたしがクーちゃんにここまでやられるとは……。さ、とどめを刺せ」
わたしはなんとか、身体を起こし彼女に刃を向けた。
だが、とどめを刺す事はできなかった。
わたしは刃を捨て、彼女の上に泣きついた。
「バカだな……そんなに感情を出してはダメだ。いくら力があっても、それでは忍びとは呼べないぞ……」
そう言いながら、彼女はわたしの頭を優しく撫でてくれた。
その日からわたしは、病床にありながらも感情を表に出さないようにする努力を重ねていた。
真の忍びであるために。
試合からひと月後。
山にあるお館様の部屋に、傷の癒えたわたしとリョウコさんがいた。
リョウコさんは進言した。
「お館様。碧眼の空はわたしより優れた忍びです。彼女を実戦配備一号にしてやってください」
お館様はあごヒゲをさすりながら、頷いた。
「ふむ。空はその歳で諒と互角じゃったしのう。解った。では、空よ。本家に来い。五分で支度しろ」
「はい」
頭を下げて、その場を後にしようとしたとき、リョウコさんが声を掛けてくれた。
「クーちゃん、いや、碧眼の空。さよならだ」
わずかな笑みが儚げに見えた。
「ありがとうございました」
わたしは無表情にそれだけ言って、去った。
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