其ノ三
わたしと華は若の部屋にいた。
外で降り出した冬の雨は雪に変わっていた。
華が笑って、軽い溜息を吐いた。
「若サマの顔、こうやってずっと見てると色々考えちゃうよね。こんな可哀想な感じだったら、よけいにさ」
わたしたちの前には、若が異様な姿で眠っている。
身体には拘束衣を着せてあり、口には棒状の猿ぐつわを噛ませてあった。
これは次に目覚めたときにまた、暴れられては困るという理由で施された処置だ。
若は朱音の秘術“傀儡(くぐつ)”で操られて大暴れした。
わたしたち苦無衆はやむなく、若に華の眠り針を使った。それでこんな事になってしまった。
その凶悪な囚人のような姿は華のいうとおり、本当に可哀想だ。
目覚めたら、お館様が朱音の秘術を解いてくださると言っていた。
できることなら、わたしの秘術『空の術』を若に伝えておきたいところだが、残念ながら若は一般人なので無理だ。
「そう言えば、朱音の術って直接掛ける相手の眼を見ないと掛けられないんじゃなかったっけ?」
華がふいにそんな事を言い出した。
「ふむ。確かに。と、言うことは若はすでにあの時に術を仕掛けられていたのか」
あの時。
わたしたちが掃討戦と呼ぶ、復讐戦。そして更にその後にあった悲劇。
あれはわたしが我が侭を言って、山に戻ってからの事だ。
武田の本家を退いたわたしに替わって、リョウコさんが本家で若の警護任務に就いた。
リョウコさんは表向きはメイドたちに混じりつつ、若を監視していたという。
わたしが山に帰ると、朱音の喜びようは尋常ではなかった。
以前にも増して、片時もわたしのそばから離れようとしなかった。
そしてわたしの近くに来る人間に対しては、華はもちろん、お館様でさえ威嚇した。
まるで姉妹の関係が逆転し、しかも、朱音はより幼くなったかのようだった。
今思えば、その頃から朱音の心は歪(いびつ)に変容していったのかもしれない。
しかし、わたしはそんな姉の事を気に掛ける余裕はなかった。
わたしが未熟であったため、信秀様をお守りできなった悔しさ。
そして、遺された若だけはなんとしても守らなくてはならないという使命感。
その二つの想いに突き動かされていた。
わたしは必死で修行に励んだ。断食や荒行もした。
やがて、三年の月日が流れた。
その間に何人かが村を出て、新生苦無衆として本家に入っていった。
わたしも十二歳になっていた。だが、まだ自らの力に自信が持てず、ずっと残って修行を続けていた。
「今頃、若は中学生におなりになっているのだろう……」
あれからどう成長したのか。
あの真っ直ぐで熱い、美しい瞳はそのままだろうか。
彼の面影を想うたび、わたしの中で何かがほころぶような、優しい、それでいて漠然と不安な気持ちがした。
その時はまだ、わたしは恋を知らなかった。
ただ、わたしはその頃から若に対して、守るべき対象として以外の感情を持ち始めていたのは事実だ。
それから少しして、村の周りの動物が急に凶暴化するという不思議な事が起こった。
わたしたちの中でもいきなり数匹の野犬に襲われて、怪我をする者が何人か出た。
わたし自身、鴉や猪に襲われた事があった。
村の掟として、動物を食用以外で殺してはならないというものがあったため、わたしたちは常に逃げていた。
そうこうしているうちについに熊が村を襲った。それも姉の部屋を。
それはわたしが修行で滝に行っていた時の事だった。
連絡を受けて、急いで朱音の部屋に行った。
見ると破壊された姉の部屋の前に黒い巨体が横たわっていた。だがその熊は死んではいなかった。
体中にまるで針鼠のように何本も針が刺さっている。
華が助けてくれていたのだ。
姉は幸い軽い怪我だった。
華がわたしに気付くと、冗談交じりに言った。
「もっと強力な眠り針を姫に作ってもらわなきゃねー。熊用のヤツ」
姫――鑪の姫(たたらのひめ)。
今はリンダ姫として、若とわたしたちの高校で物理教師をしているが、その頃は本家開発部隊の初代隊長だった。
山で暮らす者たちはいずれメイドたち旧苦無衆に替わり、新生苦無衆になる。
その時、武具やアイテムなどを開発、改良、修理などを行い、サポートする部署が必要になる。
お館様はそう考えて、本家に開発部隊を創設したのだ。
姫は元々は武田に縁のある神社で巫女をしていたという。
その能力は尋常ではなく、幼い時から式神を操り周囲を驚かせていた。
だがある日突然、物理に興味を持ち、その並々ならない頭脳で若くして博士号をも習得した。
そうやって巫女としての力とその物理の知識を持ちながらも、退屈していた彼女をお館様が開発部隊にスカウトしたらしい。
村としてはいよいよ動物たちに対して何か対策を立てねばならないという事になった。
だが、それは朱音が襲われた日を境にぷっつりと止んでしまった。
一体何があったのか。未だ謎のままである。
その日から部屋の無くなった朱音は、わたしと暮らし始めた。
応接棟にも部屋はあったため、本来ならばそこで姉は暮らすはずだった。
だが、姉はお館様や村の者たちの前で鬼気迫る勢いで頼み込んだ。
土下座だけならまだしも、何度も額を地面に擦りつけ、血が出てもやめなかった。
姉は危うい。その時、誰もがそう直感した。
わたしは姉をそうしてしまったのは自分にも責任があるような気がして、わたしからもお館様に頼んだ。
それで結局、姉との暮らしが始まったのだ。
姉はほとんど毎日、上機嫌だった。
修行もいつも一緒に行った。
朱音が不機嫌になるのは決まって華が村に帰っていた時だった。
その頃、華はあまり村にはいなかった。
彼女はわたしと同じ、未熟であるという理由で村に留まってはいた。
だが、それでも彼女以上に潜入調査に長けている者がいなかったため、よく長期間、村を空けていた。
姉は華に助けて貰っておきながら、華とはいつまで経っても不仲だった。
わたしはそんな二人を見るたびに思った。
姉さんは華にさえあんな態度なのだから、わたしが若の事を想っているなどとはとても言えないな、と。
そんなある日。
華の調査により、信秀様が殺害された件について敵の詳細が解った。
お館様はそれを元に新生苦無衆全員の本格的な初任務を告げた。
『奴らを滅せよ!』
掃討戦の始まりだった。
六月の雨の夜。
わたしたちは、真新しいゴシックロリータ調の忍服を着込んで、白面の男たちが暮らす村のすぐ近くに潜んでいた。
彼らもまた、敵企業に囲われて秘密裏に特殊訓練を受けた忍集団だった。
だがその施設はプレハブのような簡素なもので隙が多く、他の忍が来る事など全く想定していないようすだった。
三メートルほどの塀に囲まれたその村は門番も番犬もおらず、ただ物見やぐらの上でサーチライトを操作する男が一人だけいた。
そんなものは、わたしたちの前では全く無意味だろう。
わたしたちのメンバーはその時、いやその後にも有り得ない程の最強チームだった。
現在の苦無衆に、リョウコさんと朱音、それに姫を加えた十二人。
リーダーはリョウコさんだった。
雨がひとしきり強くなった。
リョウコさんが右手の人差し指のリングに口を当てた。
わたしたちのピアスが短く三度、振動した。
リョウコさんは忍笛を吹いたのだ。そしてそれは突撃の合図だった。
朱音が真っ先に飛び出した。
激しい雨の中、朱音は軽々と塀を越え、中に潜入した。
リョウコさんがつぶやく。
「なんて危なっかしい……」
わたしたちも後に続く。
姫だけはその場に残り、当時開発中だった“苦無式”を放った。
宙に舞ったカードは鳥の形に姿を変え、サーチライトとそこにいた男を襲った。
ライトは消え、男はやぐらから落ちた。
そのようすを双眼鏡で見ていた姫は、こう漏らしたという。
「ふーむ。一瞬、気付かれたようじゃな。これは改良の余地があるのう」
のちに式が透明になる仕様となったのは、その時の反省からだ。
わたしたちはそれぞれの建物へ散って、静かに彼らを倒していった。
棟のひとつひとつから灯りが消えて、冷たい暗闇に閉ざされていく。
最後まで灯りが点いている棟の前に、わたしたちは集まった。
その棟から一人の男がフラフラと出てくる。
それまで倒した他の男たちと同じく迷彩服を着込み、手には大きな西洋風の刃物を持っていた。
だが、わたしたちを襲おうとするようすはない。
すぐ後ろから朱音も出てくる。彼女は冷たい瞳でその男を見ていた。
それを見たわたしは、直感した。
あれは……お父さんが死んだときの眼だ。
まさか、あの一連の呪いのような事故は朱音が……?
いや、そんな……。
男は泣きながらも、手に持った刃物を自分に向けて振り上げた。
「た、たすけてく……ゲッ」
彼は言葉を最後まで言うことなく、自らの首を切り裂いた。
朱音は笑った。
本当に可笑しそうに、腹の底から。
その狂気の笑いは、止まない雨の中で佇むわたしたちに、重苦しい後味の悪さを残した。
《つづく》
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