「ホワイトディには、君が欲しい」
海原姉妹の姉、悠が卵をボウルで溶きながら言った。
「ヴァレンタインディには、そう言ってチョコを渡してきたんだ」
佐藤さんは、うんうん、と満足気に頷いている。
彼女のアドバイスだったのだろう。
それを顔を真っ赤にしながら聞く、阿部さん。
「す、すごいね。それで彼の反応はどうだったの?」
佐藤さん、それにわたしも聞き耳を立てる。
ただ、海原姉妹の妹、真帆さんだけは我関せずの態度だ。
少し離れたところで、これから使うフライパンをしげしげと眺めては、指で突いたりしている。
よく解らない。
今日の部活動には、男子二名はいなかった。
明信君はアルバイトがあり、坂本君はサボタージュだろう。
しょうがない男だ。
悠は仄かに顔を赤らめつつ、微笑んだ。
「反応か。彼はチョコを食べる前から鼻血を噴いて倒れそうになっていたよ。もちろん介抱してやったがな」
ふーむ。
実はわたしも同じような事を考えていた。
なぜなら、ホワイトディはわたしの誕生日だからだ。
愛する彼を貰うと同時に、わたしを誕生日に捧げる。
そう考えると、何というか物凄く乙女な気持ちになってしまう。
だが、それには流石にかなりの覚悟がいる。
やはりまだ怖い……。
それにヴァレンタインディはそもそも、安藤先輩の事もあったために、結局、その日にチョコを渡せなかった。
後日、わたしの家で食べて貰うことになったのだ。
あの勉強会の日。
美味しそうにわたしのチョコを食べる彼の横顔に、胸のときめきを覚えた。
わたしは彼の事になると自分を抑え切れない。
わたしは弱くなったのだと思う。
彼と付き合うまで、わたしは独りで判断し、答えを出し、行動してきた。
だが、彼の事を考えると何も判断できなくなる。
ただ彼に触れている事だけが正しいと思える。
盲目的な愛情だ、と自分でも思う。
本当にこれで良いのだろうか。
そう、不安になる。
彼はわたしといると強くなれると言った。
解らない。
わたしが弱くなったと言った時、彼は意外だと言った。
だから、苦し紛れに相対的に強くなった部分もある、などと口走ったが……。
正確な正体は掴めない。
彼を跨いだ時、彼の陰茎は熱くわたし自身を刺激した。
彼への溢れる熱い想いと彼の逞しい熱が重なる。
今思えば、あの瞬間、わたしは自分の感情に流されても良いと思ったのだ。
しかし、彼の声がわたしを突き放した。
『我慢できなくなるけど……いいのか?』
彼は男だ。
男の怖さも獣のごとき猛りも持っている。
その時がくれば、きっと優しくしてくれるはずだとは思う。
しかしそれでも、まだ超えられない一線。
恐怖と不安……。
わたしは彼を愛しながらも、恐れている。
矛盾だ。
なぜ、矛盾があるんだ……?
「さ、真帆。こっちはできたぞ」
悠の声でわたしは我に返った。
真帆が敬礼しながら、変な言葉で答える。
「あらほれさっさー」
真帆はガスレンジに火を入れ、フライパンに油を薄く引く。
そこへ悠が溶き卵のボウルを持って移動する。
わたしたちも一緒に行った。
悠が阿部さんを見つめて、口を開く。
「このだし巻き卵は特に阿部さんのためにやっておく」
阿部さんが頷いた。
「基本のひとつだから、後輩が来たときに出来ないと恥ずかしいぞ」
「うん。がんばる」
「よし。じゃあまず、真帆がやったようにフライパンに薄く油を引いて……」
阿部さんは悪戦苦闘した。
いくつかがきれいに巻けず、スクランブルエッグになってしまった。
しかし、最後にはそれなりにちゃんとしたものになった。
ゆっくりだが、彼女も確実に進歩していた。
部活動の後。
わたしたち五人は駅の方面に向かっていた。
ふだんなら、わたしはそのまま真っ直ぐ帰宅するのだが、今日は『スーヴェニール』に用事がある。
もちろん、明信君に逢いたいという事もあった。
だがそれ以外の目的のほうが今日は重要だ。
わたしは、安藤先輩に謝っておきたい。
結局、彼女との戦いでわたしは、明信君の優しさに甘える事で勝ちを得た。
それは卑怯だ。
彼との『絆』を利用したのだ。
先輩の事は認めている。
強くて格好良い人だ。
それでも、彼を渡すのだけは嫌だ。
絶対に。
本音では、彼を誰かに奪われる事など考えたくもない。
こんな弱いわたしが、そもそもあの強い先輩と正々堂々戦えるなどと思ったのが間違いだったのだ。
だから今回の件、全てについて謝りたい。
そう思った。
ふいに、悠が肩を叩いた。
「どうした? 浮かない顔をして」
「あ、いや。先輩の事でね。謝っておこうと思うんだ」
悠は微笑みながら頷いた。
「ふむ。そうか。だいたいの話は聞いているがその選択は間違っていないと思うぞ」
わたしも微笑みを返す。
「ありがとう。悠。ところで……」
「ん」
「その。怖くはないのか」
「何のことだ」
「君は君の彼とホワイトディに性交をすると言っていたが」
「ああ。うむ。怖いぞ」
わたしは少し驚いて、彼女の目を見つめた。
彼女もわたしを見つめ返す。
悠は静かに言葉を継いだ。
「はっきり言って無理だと思っていた。いくら好きでも、まだそこまでは怖いと」
わたしは思わず頷く。
「だが、前にも言ったろう。無理だと思う世界から一歩踏み出す勇気も必要なんだ」
悠は、ふいに後ろにいる佐藤さんの顔を見た。
「実はこの言葉は、佐藤さんの受け売りなんだがな。な、佐藤さん」
佐藤さんは自分の名前が呼ばれて、きょとんとしていた。
「……はい?」
悠が佐藤さんに笑いかける。
「一歩踏み出せば、今までとは違う素敵な世界が見えて来るんだよな」
佐藤さんも笑い返した。
「……うん。きっと」
そうだ。
悠がヴァレンタインチョコを渡しに行く時、わたしは廊下で答えたじゃないか。
確かに実践しないと解らない事はある、と。
あの時は性交にまで考えが及ばなかった。
単に付き合うとか、キスするとかそのくらいだった。
ふいに佐藤さんが、とてとて、とわたしに近づいてきた。
背の高いわたしに並ぶと本当に小学生みたいだ。
彼女は口に手を添えて、背伸びをした。
わたしは耳に手を添えて、屈んだ。
佐藤さんは囁いた。
「……ホントに好きな人となら……思ったほど、痛くない、かも」
わたしは佐藤さんの顔を見た。
「佐藤さん……」
「……ふふっ」
その笑顔は、彼女の内面から発散する色香が輝き、まるでさっきまでの子供っぽさが嘘のようだった。
悠と言い、佐藤さんと言い、本当に良い子ばかりだ。
仲間がこんなに愛しいものだとは思わなかった。
わたしは思わず、ふたりを抱きしめてしまう。
「あ、おい。涼夏?」
「ん、ふふふ」
「済まない。二人とも。こんなわたしに言葉をくれて」
「あ、いいな! わたしも混ぜて!」
阿部さんがわたしに密着してきた。
「わ、わたしの事は諦めたんじゃないのか」
「涼夏様だって、ふたりを抱きしめたじゃないですかぁ」
わたしに対する呼び方が変わっていない事実に、なぜか安堵する。
「正当なスキンシップです!」
「しかたないな」
わたしは微笑みが零れた。
その時、真帆さんがぼそっとつぶやいた。
「はぁあ……なんかみんな好きな人とかいて、いいなぁ」
悠が今度は彼女をフォローする。
「我が妹よ。きっと君にも素晴らしい男性が現れる。間違いない」
「どうして? お姉ちゃん。なんでそう言い切れるの」
「なぜなら、君もまた特別だからだ」
なにかどこかで聞いたようなセリフだった。
だが真帆さんの顔は、ぱぁっと明るくなった。
「そっか! 特別なんだぁ!」
上機嫌になった真帆さんは先に歩き出す。
「みんな、早く行こ! おいしい風光君の食べに!」
わたしたちはみな微笑むと、和やかな気持ちで店に向かった。
『スーヴェニール』の扉を開けると、軽やかにカウベルが鳴る。
「いらっしゃいませー……あ!」
わたしたちは、店の制服を着た先輩に軽く会釈した。
わたしが一歩前に出て、挨拶する。
「安藤先輩、お久しぶりです」
「リョウちゃん。みんなも来てくれたんだ。嬉しい。ありがとう!」
先輩は素直に喜びを口にした。
本当に屈託がない。
「えーと、五人ね。さ、こっちへどうぞ」
彼女はわたしたちを、六人掛けのテーブル席に案内した。
全員が席に着くと、注文を取る先輩。
「はい、以上ですね。ご注文を繰り返させて頂きます。チョコパフェがお一つ……」
すっかり板に付いているようすだ。
「承りました。少々お待ち下さいませ」
ニコニコと立ち去ろうとする先輩に、わたしは声を掛けた。
「安藤先輩」
「ん。なに、リョウちゃん」
「今日のお仕事は、何時くらいに終わりますか」
「あと一時間くらいかな。なんで?」
「少し、お話ししたい事があります。よろしいですか」
先輩は軽く頷いた。
「うん。解った。終わったらこっちに来るよ」
そう言って大股で、注文を厨房のほうに伝えに行った。
あの奥に明信君がいる。
そう思うと、身体が熱くなった。
それと同時に、注文だけとは言え、先輩が彼に話しかけている事実がつらいと感じた。
やがて、先輩の仕事が終わる時間になった。
「おまたせー」
先輩の私服は黒のワンピースに白い七分袖の上着だった。
彼女はわたしの隣に座るとすぐに話しかけてきた。
「それで? 話ってなに」
他の人間が言うと、ぶっきらぼうになるところだ。
だが、彼女が言うとその笑顔のせいか、なぜか安心する。
「この前のヴァレンタインディの件です」
先輩がわたしの横顔を見つめながら、頷く気配がする。
わたしは彼女のほうを向き、目を見つめ返した。
「先輩」
「ん」
「申し訳ありませんでした」
深く頭を下げる。
「リョウちゃん……」
頭を上げて、また先輩の瞳を見た。
「わたしは卑怯者です。正々堂々とあなたと戦えなかったのは、わたしが弱いからです」
先輩はニコッと口元を緩めた。
「まあ、卑怯っちゃそうだねぇ」
わたしに返す言葉はない。
「でもね、リョウちゃんは弱くはないよ」
「え……?」
彼女は続ける。
「そうやって元ライバルの、しかも先輩にさ、謝りに来るなんて弱かったらできないよ」
諦めにも似た笑顔。
「そういう、わたしより強い気持ちがリョウちゃんにあるから、あたしは負けを認めたの」
自嘲気味の笑みを浮かべる。
「しっかしあたしってバカだよね。単なる自爆で終わっちゃってさ」
みんなはさっきから、うつむき加減で何も言わない。
先輩が頭を掻いて、笑う。
と、急に真顔になった。
「リョウちゃん」
「はい?」
安藤先輩は、さっきのわたしと同じくらい深く頭を下げた。
「こっちこそ、ごめんね」
「先輩……」
先輩は頭を上げると、わたしの手を握った。
「アキくんのこと、信じてあげな。あんなに一途な男、なかなか居ないよ」
ずっと以前、母に言われた言葉が重なる。
『彼を信じなさい。裏切られたと思っても、とにかく信じなさい』
好きになる事や、その想いを告白して付き合う事も決して容易ではない。
だが、それ以上に愛した人を信じる事は難しい。
愛しているのに、恐怖しているという矛盾。
それは彼を信じられない事から来るものなのだ。
わたしはこっくりと頷いた。
「はい。彼をもっと信じます」
先輩はきれいな笑顔を見せた。
「うん。そうしな。でないと、またちょっかい掛けるよ?」
わたしは微笑みを返しながら、敢えて言った。
「莫迦(ばか)ですね、先輩は」
「あっ! このぉ! 先輩になんてことをー!」
安藤先輩はわたしの首に腕を回し、軽く締め付ける。
それはどちらかというと、抱きしめたと言ったほうが良かった。
「ひゃっ」
「ははははっ! かわいい声出しちゃって!」
みんなも一斉に笑った。
本当にわたしは明信君と付き合って良かったと思う。
彼と付き合ったおかげで、こうして良い友人たちが出来て。
今日も前を向いて生きていける。
そうか。
彼が、わたしがいると強くなれる、と言っていたのはこういう事なのだ。
「先輩。離してもらっていいですか」
先輩はニコニコしながら、わたしを離す。
「ん。トイレ?」
「違います。ちょっと明信君をそこまで呼んでくれませんか」
「え? まあ、今は暇だと思うからいいけど」
わたしは先輩の後について、店内の従業員出入り口へ行った。
「アキくーん! ちょっと」
彼が出てきた。
「はい。なんですか。先ぱ……あ!」
先輩は、にんまり笑う。
「リョウちゃんのご指名入りましたぁ」
わたしは彼に会釈した。
「委員長。来てたんだ。珍しいね。それでどうしたの?」
ふんわりと彼の声が心に染み込む。
わたしは口を開いた。
「明信君。わたしは気が付いたんだ」
「え? なにに?」
わたしは彼の瞳を真っ直ぐ見つめて、告げた。
「わたしも、君がいてくれると強くなれる」
「あ……」
彼の頬が桜色に染まる。
「それと、もっと君の事を信じるようにする」
わたしは手を差し出した。
「だから、これからもよろしく頼む」
彼は握り返してくれた。
「……うん。こっちこそ」
彼の手は、熱く大きかった。
先輩がまた、にんまりと笑う。
「いっそのこと、ここでチューでもする?」
「しませんよ!」
わたしと彼は先輩に向かって同時に言った。
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||