わたしたちの気持ちは、これからしようとする行為にもうすっかり興奮し、期待と不安が入り乱れていた。
だが。
わたしの家の玄関に入ってみると、女物の靴が出ていた。
母の物だ。
母が、異常とも言える早い時間に帰って来ていたのだ。
「お、お母さん、もう帰ってるみたいだね……」
「うむ。そのようだ……」
明信君は頭を掻いて、力なく笑う。
わたしの中では意気消沈が80%、母に対する怒りが15%で、最後の5%が安堵だった。
とにかくわたしたちは、次の行動をどう取れば良いのか、判らなくなってしまった。
そのまま玄関で佇んでしまうわたしたち。
そうやってその場で動けずにいると、奥のリビングから母が出てきた。
「あ、涼夏! お帰り! 今日はね、あなたのお誕生日だからさー、無理して早く帰ってきたのよ! 驚いた?」
わたしは返答しようとしたが、母はいつものとおり唐突に話題を変えた。
「あら! 風光君じゃないの。ご無沙汰ね」
「あ、はい。ご無沙汰しています。あ、えと、夏は大変お世話になりました。ありがとうございました」
彼は母に一礼し、完璧とも言える返答を繰り出した。
明信君はこういう突発的な事象に強い。
わたしが彼を好きなところのひとつだ。
エレベータの事故があった時もそうだった。
多分、彼を良く知らない人間には、彼がなんだか頼りないようにも見えるだろう。
しかし実際、彼はいざというときには素早く正しい判断をし、動けるのだ。
それはとても格好良いと思う。
母は、わたしと彼を交互に見て、にんまりとした。
その笑顔は、安藤先輩を思い起こさせた。
母の本当の娘はわたしではなく、安藤先輩なのではないかとさえ思う。
「ふーん……あなたたちがぁ、一緒にぃ、こんな日のぉ、こんな時間にぃ、帰って来るって事はぁ」
無闇に語尾を延ばす喋り方にやや苛立つ。
それに、なんというニヤついた表情だろう。
母は明らかにこの状況を楽しんでいる。
「あたしはぁ、お邪魔だったぁって事なのかなぁ?」
それに対して、明信君がさらりと答える。
「あ、いえ。ちょうど良かったですよ」
彼はニコニコと話を続けた。
「実はさっき、僕と涼夏さんで夕食を作って、お母さんと三人で夕食を食べようって話していたんですよ。ね? 委員長」
確かにその話は嘘ではない。
嘘ではないが本当の目的は違うはずだ。
「……」
わたしは無言で彼を睨んでしまう。
苦笑いを浮かべる明信君。
母は彼の提案に喜んで、驚きの声を上げた。
「あら、そうなの! ステキ! 風光君、三ポイント進呈よ」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
彼は母の謎ポイントを進呈され、よく解らないながらも一礼した。
母と穏やかに笑い合う彼。
彼はもう、気持ちを切り替えているようだ。
わたしは少し疎外感を覚えた。
「じゃあ風光君、涼夏。さっそく作って! 二人のラブラブディナー!」
母は物凄く期待の篭った眼差しをわたしたちに向ける。
わたしはもう諦めて、心の中で溜息を吐いた。
「はい。お母さん」
だがそれでもまだ、わたしの心には少し尖ったものがあった。
その苛立ちを、つい彼に向けてしまう。
「では、すぐに取り掛かろうか。“風光君”」
わたしは靴を脱ぎながら、彼の事を“風光君”などと他人行儀に呼んでみる。
「う……ああ。そ、そうだね」
彼の顔色がやや悪くなった。
それを見ていた母は、わたしの心を見透かしたように微笑んだ。
「涼夏は甘え下手ね、相変わらず」
「お、お母さん、なにを言ってるんだ」
わたしは動揺した。
母は片方の眉を上げて笑う。
「風光君。この子が怒ってるときはたいてい、甘えたいときなの。拗ねてるのよ」
「そ、そうなんですか」
うう。
やはりこの母はわたしの母だ。
よくわたしを見ている。
「だからね、拗ねちゃったときは……ね? 解るわよね。ふふふ…」
母は含み笑いを残してキッチンに向かっていった。
「全く……あの母ときたら。今回の件でわたしが怒っているのは、あの人にも多大な責任があるのだがな」
そんなつぶやきを漏らしていると、急にわたしの腋の下から、背後にいる彼の腕が入ってきた。
わたしの胸と腹部を、ふわりと抱き寄せる。
「ひゃ……っ?」
そのせいで一歩二歩、後ろに下がった。
わたしの背面が彼の胸と腹部に密着する。
「ん……」
その温もりに安堵を覚える。
わたしの心さえ温められているような気がする。
わたしの右肩の上に、彼のあごが乗った。
柔らかな吐息が、髪の間から耳に掛かる。
「んん……明信くん…息がくすぐったいぞ……」
彼の優しい声がすぐ耳元で聞こえた。
「ごめんな、委員長。なんか拗ねさせちゃった?」
こんな状態での彼の声はわたしにとって、もう媚薬と言っても良い。
脚から力が抜けてしまいそうだ。
「いや……ただ、お母さんとの夕食はもっとずっと後だったはずなのにだな……」
「うん」
「予想外だったんだ。確かに冷静に考えれば、母親なのだから、娘の誕生日に無理をして早く帰ってくる事もあるだろうと予測はできたはずなんだが」
「うん」
「君と一緒に過ごす事ばかりが頭にあってな。舞い上がっていたんだと思う」
「うん」
彼は静かな声で、うんうん、と話を聞いてくれる。
そのせいと、彼の腕の中にいるおかげで、ついつい饒舌になってしまう。
「それに君の母に対する対応も素早くて……なぜそんなに割り切って気持ちをすぐ切り替えられるんだ? 明信君のわたしへの想いはそんなものなのか。寂しいじゃないか」
彼は何も言わず、わたしの頬にキスをした。
彼がほとんど頬に唇を付けたまま、囁く。
「ホントに可愛いなぁ……委員長は」
わたしの心臓が大きく跳ね上がった。
「俺は委員長が本当に好きだよ」
わたしの身体が芯からとろけだした。
「ああ……もう。答えになっていない上に……また下着の替えが必要になったじゃないか……」
そう言いながらも、わたしは彼を振り返るとその唇を求めた。
「ん……んん……」
わたしは今、自宅の玄関先で、愛する人と大胆なキスを繰り広げている。
母親も奥に居るというのに。
いや、だから余計に気持ちが昂ぶっているのか。
だとしたら、わたしは彼の事をヘンタイなどとは言えないのかも知れない。
彼の熱い手のひらが、わたしの背中と臀部を強く撫でる。
それは今までにされた事のない激しいものだった。
「んん! あ……っ」
彼の陰茎が硬度を増してきているのを、わたしは下腹部に感じた。
彼のいきり立つそれが、わたしの腹部に当たって擦り上げられる。
「んあ……硬い……ん、だ、だめだぞ……そんな、お母さんもいる、んだから」
口だけの抵抗。
わたしの身体はすでにそれを求めていた。
その熱い剛直が、わたしの身体に押し付けられているだけで、もう崩れ落ちそうだった。
彼が深く息をしながら、わたしを呼んだ。
「ああ、委員長……」
首筋に何度も口付けられて、思わず甘い声が出てしまう。
「んああ……あ、明信君……」
制服の上からお互いの肉体を感じ合う。
彼はしなやかで硬く、力強い。
好きな人に触れられ、わたしも触れているという事実。
それがめまいにも似た感覚にいざなう。
ふと身体が離れると、彼の香りが立ち上る。
男の、いや、牡の匂い。
体臭ではない、独特のものだ。
彼はまた、わたしの露出している素肌に口付ける。
唇は首筋から鎖骨へと移動していく。
「ふぅ……ん……」
彼の荒い吐息が肌を撫でる。
だんだん何も考えられなくなっていく気がする。
背中にあった彼の手がシャツを伝って、下のスカートの中に入ろうとする。
指先が、わたしのお尻の上のほうで止まる。
「バカ……無茶をするな……スカートを取らないと、手が入るわけがないだろう」
彼はわたしの首元から顔を離した。
「……取ってもいいの?」
わたしはとんでもない事を自分で言ってしまったようだ。
瞬間的にわたしの顔が赤らんだのが解った。
「いや! だめだ。こんなところでは……だからといって別の場所なら良いという事ではなく、だな、その、今は無理だという事で……ん!」
彼が唇を重ねてきた。
彼はわたしの口に舌を入れてくる。
わたしはそれに応えて、舌を絡めた。
深いキス。
わたしたちは口腔内で愛し合う。
「ん……あ、ん……ふ……」
気持ち良い。
ずっとこうしていたい。
いや。
もっと、もっと愛して欲しい。
強い想いが激流となって、わたしの心のダムを決壊させようとしていた。
そんなとき、ついに彼の左手が前に回り、スカートの中に入ってきた。
太ももの外側を柔らかに撫でてくる。
その手が上がって、わたしの下着に触れた。
指先はわたしのお尻を揉むように蠢き、脇からは親指が潜り込む。
彼の親指は、脚の付け根から下腹部を往復した。
時々、骨盤に当たる。
他の指は直にわたしのお尻の肉を揉みしだく。
物凄く恥ずかしい。
恥ずかしいが、それでも彼の次の動きに神経が集中してしまう。
どうするつもりだろう。
親指の先が伸びて、わたしの陰毛の先に触れる。
「あ……」
わたしは息を呑んだ。
彼の手が少しずらされ、親指が大事な部分に近づく。
「ね、触っても、い、いい、かな……?」
だめだ、今、これ以上の事をされたら、わたしはもう何もかも投げ出して、彼に溺れてしまう。
だめだ……。
「はいはい。そこまでねー」
母がパンパンと手を打って、玄関に戻ってきた。
「ってか、涼夏ちゃんもいつの間にか、すっかり大人になっちゃって。久々にドキドキしちゃった!」
赤い顔をを両手で押さえながら、はしゃいでいる。
「まさかお母さん……見てたのか」
「もちろんですとも!」
なぜか偉そうに手を腰に当て、ふんぞり返った。
「でもね、こんな玄関でね、エッチなのはいけないと思います! 明信君、二ポイント減点!」
「あ、はい、す、すみません……」
注意を受けて、さらに謎ポイントを減らされ、しょげる彼だった。
しかも母はいつの間にか、彼の事を明信君と呼んでいる。
ん……この匂いは……。
「お母さん! お酒飲んでるのか!」
「ひょっひょっひょっ! いいじゃなーい! 無礼講よ! ぶ・れ・い・こ・う!」
だめだ、この人。早く何とかしないと。
「明信君、悪いが母さんをダイニングに連れて行ってくれないか。わたしは着替えてくる」
「あ、ああ。解った」
全くお母さんという人だけは……。
わたしは彼女を恥ずかしいとは思うが、しかしこれは明信君をかなり気に入っているという事だ。
そうでなければ、ここまで他人に自分をさらけ出したりはしない。
母はそういう公私をキッチリと分ける人だからだ。
その後、わたしたちは夕飯を作り、みんなで食卓を囲んだ。
そうやってとても楽しく夕餉を終えると、しばらくダイニングでくつろぐことにした。
「じゃあ、そろそろケーキ出しましょうねー」
お母さんは冷蔵庫へ赴き、ケーキの箱を持ってきた。
箱にはよく見知った店の名前があった。
そう、『スーヴェニール』だ。
「お母さん、ここは……」
「知ってるの? ここ、ほんとに美味しいんだって! この近所じゃもうかなり有名よ。値段もお手頃だし」
わたしは明信君と顔を見合わせた。
「お母さん、実はそこで彼が働いているんだ」
「えっ! そうなの?!」
「はい。それでたぶん、その生地は僕が作ったものだと思います」
「えええ!」
それにはわたしも驚いた。
「そういうホールケーキは予約制なんで、数が少ないんです。それで昨日、僕が焼いた生地はひとつだけなんで、たぶん……」
「そうだったのか……」
なんという縁だろう。
母は、感心したように頷いた。
「すごい偶然ってあるもんねぇ。これで明信君にはさらに追加点をあげないといけないわね。ま、おいしくなかったら減点だけど」
そんなことを言いながら、母は箱を開け、中身を大皿に取り出した。
「いい感じじゃない?」
ケーキはわたし好みのチョコケーキだった。
生クリームと苺で洒落た感じにデコレーションが施されている。
上にはホワイトチョコのネームプレートが乗っていた。
「じゃあ、切るわよ」
「え、ちょっと待ってください!」
「お母さん! まだだ!」
母はわたしたちの制止も聞かず、真剣な目つきでナイフを握ると、まるで刀のように振り下ろした。
「ふん!」
ガツッ!
ナイフと皿のぶつかる音が響く。
ケーキは真っ二つになる。
母はにやりとした。
「どんなもんよ……!」
一仕事終えたみたいに、爽やかな顔だ。
わたしは呆れてしまった。
「お母さん? これはわたしの誕生ケーキじゃないのか」
「そうだけど。なにか?」
「箱にはろうそくが入っていなかったか」
「え、あ……!」
やっと気づいたらしい。
「お母さん。確かにやや子供っぽいかもしれない。だが一応、まずはハッピーバースディを歌って、ろうそくを吹き消すのがセオリーだろう?」
「ご、ごめんなさい……と、とにかく切らないといけないって事で頭がいっぱいで」
わたしは溜息を吐いた。
今日、何回目だろう。
母は取り繕うように言った。
「とりあえず、まだ半分になっただけだし、その、元通りにくっつけてから、またやり直すってのは……?」
「却下だ」
「ううう、ほんと、ごめんなさい……」
母の身体がどんどん小さくなるように見えた。
それを見ると少し可哀想になる。
だが、それでも気持ちは治まらなかった。
ネームプレートも真っ二つになっている。
なんだか泣きたくなってきた。
こんな酷い誕生日は初めてだ。
せっかく愛する人と一緒に最高に素敵な一日を送れると思っていたのに、お母さんのせいでこんな事に……。
明信君が苦笑いで提案する。
「えーと、こ、こうすればどうかな。どっちか半分にろうそくをなんとか立ててさ、三人でハッピーバースディを歌って、それを吹き消すんだよ」
わたしは不満を露にしながら彼を見た。
「……ふう……。それがこの状況下では一番、妥当かも知れないな」
「そ、そうだよ。きっとそう。さ、お母さんもご一緒に、ね?」
「うん……ありがとう、明信君。優しいね。二ポイント復活よ」
「あはは。ありがとうございます。僕はホント、それだけが取り得みたいなものですから」
彼は母に笑い掛けた。
その笑顔になぜか、腹が立った。
なんだろう、この気持ちは。
まさか、わたしは母に対してまで嫉妬しているのか?
うう。なんとわたしは醜い女なんだ……。
明信君がテキパキと半分になったケーキにろうそくを立てていく。
「えーと、委員長は今日で十七歳だよな」
「ん」
わたしは自己嫌悪をしていたせいで、ぶっきらぼうに答えた。
彼は特に気にしていない様子だったが、母は勘違いしてわたしに謝ってくる。
「ほんと、ほんとごめんね……涼夏ぁ……」
「解ったから、抱きつかないで」
ああ、もう。酔っ払いなど大嫌いだ。
「よし、これでいいや」
十を示す大きなろうそくと、五を示す中くらいのろうそくが一本ずつ。
そして一の位の小さなろうそくが二本。
それらがケーキの上に立ち、火が灯されている。
「ふむ、では電灯を消すぞ」
わたしは蛍光灯のリモコンを操作した。
ふっと人工の明かりが消え、ろうそくの光だけが残る。
そのゆらゆらと揺らめく灯火は神秘的だ。
「じゃあ、ハッピーバースディ歌うぜ! お母さんも、さん、はい!」
母は、やや落ち込みながらも、一緒に歌ってくれる。
「ハピバスディーツゥーユー、ハピバスディーツゥーユー、ハピバスディーディア涼夏ぁ……ハピバスディーツゥーユー!」
わたしは少し照れながら、ろうそくを吹き消した。
明信君とお母さんの拍手が起きる。
「十七歳、おめでとう! 委員長!」
電灯が点けられる。
「委員長は、その、アレがアレなら、要らないって言ってたけど一応、用意してあったんだ」
彼はいつの間にか、見たことのあるようなリボンで括られた小さな袋を持っていた。
「それは……」
「うん。同じものだけど、でも大事な思い出だからさ。もう一度、作ってみたんだ。前みたいに出来立てじゃないけど」
彼は、はにかむように笑いながら、それを差し出した。
そう、これは彼の手作りクッキーだ。
彼の最初のプレゼントだった。
これを口にした時、とても美味しくて驚いたものだ。
そして同時に、わたしは――恋に落ちていた。
「ありがとう……明信君……」
これだけで、母の失敗も、何もかも全て、許せてしまう気がした。
この人がいればきっと、これから先も生きていける。
わたしを強くしてくれる。
わたしは今度は嬉しさで泣きたくなった。
《end》
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