脂ぎった係長が叱咤する。
『おまえ、最近、弛んでるんじゃないの? 新入社員の頃のほうが、よっぽど仕事できたんじゃないの? ん、そうじゃないの?』
「ちっ、女には甘いくせに、あのオヤジ!」
つぶやいて寝返りを打つと、カーテンの向こうはまぶしかった。
月だ。満月の光が、ほんのり薄紅に色付いて、ベランダから差し込んでいる。
明るい。なんて明るいんだ。これじゃ、よけいに眠れない。
だから、あの時、遮光カーテンにしておけば良かったんだ。
あの時。
彼女がこれを選んだんだ。レースのひらひらした、淡いピンクのカーテン。
「情けねぇ……」
もう、彼女はここにはいない。
彼女――千夏(ちなつ)は、泣き叫んだ。
『公宏(きみひろ)、なんで怒らないの! あたし、浮気したんだよ?』
だって、俺がおまえを構ってやれなかったから、そんなことしたんだろう?
だったら、怒れるわけ、ないじゃないか……。
『あんた、優しいけど、優しいけど! 優しすぎるよっ!』
そう言って、彼女は出て行った。
短い付き合いだった。
この高層階に、二人で来たときは将来を夢見ていたのに……。
俺はあの日の言葉を、口の中で繰り返した。
「優しすぎる、か……」
大きな溜息と、少しの涙がにじんだ。
眠れないと、よけいな事ばかり考えてしまう。そしてまた、眠れなくなる。悪循環だ。
俺はもう、無理に寝ることは止めようと思った。
外の空気を吸うために、ベッドから起き上がる。
カーテンを開け、ガラス戸のサッシに手を掛けた。
それが、半分ほど開いた時。
目に入ってきたものに驚いて、手が止まった。
「なんだ……あれ」
いつの間にかベランダの手すりに、ほとんど裸の女が、外を向いて腰掛けていた。
青色と銀色が混じったような、不思議な色合いの長い髪が、重力に逆らうように、ふわふわと浮いている。
耳が人のそれとは全く違う。犬でも猫でもない、強いてあげるなら牛のような耳だ。
昔、千夏と牧場に行ったときに見たものと、よく似ている。
月に輝く白い肌。その身体は匂い立つように肉感的だ。男なら誰でも、反応するだろう。
着ているものは一見、透けているネグリジェのようだが、それは煙のように、もやもやとして形がつかめない。
俺はバカみたいに、その娘の後ろ姿を見つめてしまう。
現実離れした美しさだ。ホントは俺、もう寝てるのか?
いやまあ、夢なら夢でいいんだけど。
いずれにせよ、怖い感じはしないので、俺は彼女を思う存分、眺めた。
彼女は俺の視線に気付いたのか、こちらを振り返った。
髪と同じ色の、瞳。それは茫洋として、焦点が定まらないように見える。
無表情で小首をかしげ、問いかけてきた。
「なにか?」
心の奥に響くような、静かで深い声。
俺はドキリとした。
頭を掻きながら、サッシを全部、開ける。
「あんた、なにモンだ」
彼女は、さっきとは逆方向に小首をかしげて、答える。
「ポケ、とか、デジ、とか、そういうのが付くとでも?」
なんだ、この人慣れした不思議生物は。
「いや、でも、そういうたぐいだろ。あんた、どう見ても人間じゃねーモンな」
そいつは、頬にグーを当てる仕草をする。何か考えているのか。
「ふむ。確かにわたしは人間ではない。でも、何者かと問われると、解らないとしか言えない」
「はぁ? なんだよ、それ」
彼女は、ふわりと手すりの上に立った。
背後からの月光が、彼女の見事なプロポーションをシルエットにして、浮き上がらせる。
俺は思わず、息を飲んだ。
そのまま、彼女は後ろに跳ぶ。
「あっ! バカ! ここ十階……!」
俺は思わず駆け寄る。だが彼女は、風に舞う羽みたいに、ふんわりと浮いていた。
腕を広げ、海に浮かぶように目を閉じた。
「わたしは、ふと気が付くと、この世界にいた。その日から人間の時間で考えると相当、永い年月を経たと思う。だが、わたしには、わたしの存在が何なのか、そもそも何者なのか……解らない」
彼女の心を示すような不定形の服が、夜という名の静かな水面に浮かび、彼女と共に漂う。
その内側の姿態は、ひどく艶めかしい。特に胸は……大きい。
「おまえ……名前は?」
くるり、とイルカのように空中で反転し、俺の目の前に来た。
「たぶん、ない。正確には、解らない、と言うべきか」
俺は呆れた。
「なんだ、何も解らないんだな」
彼女はまた、小首をかしげて拳を頬に付ける。
「それは、人間も同じではないのか」
「え……?」
彼女はすっと腕を伸ばし、俺の頬を両手で軽く挟む。
吐息が掛かるほど、顔を近づけた。
「自分がどこから来て、どこへ行くのか、何を成すべきなのか、何が出来るのか……そもそも、自分が何者なのか……お前には解ると言うのか?」
無表情だが、その茫洋とした眼差しは妙に色っぽい。ドキドキする。
「そ、そうだな……確かに、解らないな……」
彼女が更に、俺に顔を近づけた。
「でも、ひとつだけ、確かに解る事がある」
もう、唇がくっつきそうだ。俺の頬が熱くなる。
「な、なに?」
ほんの少し、彼女は目を細めた。微笑んだ、のかも知れない。
「それは、今、やりたい事だ」
俺が返事をする前に、彼女は唇を重ねてきた。
次の朝。
俺は、今までになく爽やかな目覚めだった。
「なんだろう、すごくいい夢、見た気がするなぁ」
起き上がると、全裸だった。
「あれ……」
性的な形跡がある。
ふと、バスルームからシャワーの音が聞こえる。
デジャビュー。
昔、よくこういう事があった。
「まさか、千夏が戻ってきたのか……?」
ベッドから降りて、そのまま風呂場へ向かう。
うっすら見えるシルエットは、女だ。
「おーい、千夏?」
外から声を掛けてみる。が、返事はない。
「おーい!」
シャワーの止まる音がして、扉が開いた。
「呼んだか?」
蒼銀の髪と瞳。顔つきは西洋風で鼻が高い。だが、目は切れ長で東洋風だ。
そして、あまりにもエロティックな肢体。
夢に見た女だった。
「おおおおまえ!」
俺が驚いて指さすと、無表情に小首をかしげる。
「わたしの名は、おまえ、ではない」
ああ。そうか、あれは夢じゃなかったのか。
「そ、そうだったな……ミヅキ」
彼女はうっすら笑った。
「んむ。あなたが……キミヒロが付けてくれた名前だ。漢字で海、月、と書くのだろう?」
「ん? あ、ああ、そうだ」
つまり、くらげだ、なんて口が裂けても言えない。
「つまり、くらげだ。確かにわたしの格好から見て、言い得て妙だと感心した」
激しく吹いて、咳き込んだ。
「どうした、大丈夫か」
「あ、ああ。だ、大丈夫だ」
てか、気付いてて、更に感心してたのかよ。
「ふむ。では、一緒にシャワーを浴びよう。これは、なかなか気持いいぞ。南の国で浴びた雨のようだ」
「いや、知ってるけど、って、おい! ちょっ」
俺は彼女に腕を引っ張られ、バスルームに連れ込まれた。
風呂場から出て、お互いの身体を拭きっこする。
そして時々キス。
彼女のぼんやりした瞳が、俺を見つめる。
「人間と触れ合うのが、こんなに気持良いとは知らなかった。ありがとう。感謝する」
俺は服を着ながら、答える。
「今まで、一度も人に触った事、ないんだっけ」
彼女は、脱衣所の上に浮かんでいた、例のガスのような服を手に取り、身に纏う。
ほとんど服としての機能を果たしていないと思うんだけど。
「そうだ。記憶にある限り、一度も人間に触れた事はない」
そう言う彼女は、寂しそうな顔に見えた。
「人間は、わたしと似ているが違う生物だ。人間は、そういうものを一番、嫌う。だから、怖かった」
「じゃあ、なんで俺と……?」
また、小首をかしげた。
「解らない。ただ、キミヒロは……優しそうだった、からかも知れない」
ミヅキは、この広い世界を長い時間、生きてきたんだから、そんなヤツはいくらでも居ただろうに……。
だが、それ故に彼女の言葉は重かった。
「それって俺が世界で一番、優しい男って事?」
おどけるように言ってみる。
彼女は、俺のほうを見て頷いた。
「うむ。少なくとも、わたしにとっては、そうだ」
俺は真っ赤になった。
「ああ、そそそか、よかったよ、うん。じゃ、じゃあ、会社に行ってくるよ」
俺が急いでカバンを手に玄関に向かうと、肩を掴まれた。
「うむ。行ってらっしゃい」
ふわりと、飛んで。
軽くキスをしてきた。
こんな新婚さんみたいな事、千夏といた頃も、した記憶はなかった。
彼女は唇を離すと目を細めた。
「待ってる。がんばって来てくれ」
その真っ直ぐで素直な言葉に、俺は心を打たれた。
「あ、ああ! 行ってくる!」
扉を閉めて、廊下に出る。
朝日がまぶしい。目に染みる。
風が気持いい。深呼吸した。
なぜ溢れるのか、よく解らない涙が流れた。
やって来たエレベータには、幸い誰も乗っていない。
俺は乗り込むと、ハンカチで目頭を拭いた。
男なんて単純な生き物だな、と自嘲気味に笑いながら。
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