千夏は、引っ張ってきた手を離した。だが、向こうを向いたままだ。
オレンジ色の夕日が、彼女の輪郭を片側だけ輝かせている。
俺は息を整えた。
ゆっくり、そばに寄って。
その背中に話しかける。
「千夏。俺も……もう一度やり直したい」
無言。
橋を通る車の音に、俺の声が全てかき消されてしまい、届かなかったんじゃないか。
そう思うほど、彼女は反応しなかった。そんな距離じゃないのに。
やがて、ぽつりと、つぶやいた。
「……バカじゃないの」
彼女は振り返る。
「バカそのものよ!」
怒りで顔を夕焼けより赤く染めて、叫んだ。
「人が頑張って素直に言ったときは断っといて! 後から、やっぱり好きとか言って!」
その瞳から、銀色のしずくがこぼれた。
「許さないんだからね! これからも……ずっと付き合ってくれなきゃ、絶対許さないんだから!」
そう言うと、俺の胸に飛び込んできた。
無言で彼女の頭を撫でた。
俺の部屋の前。
千夏とふたりで、ここに着いたときには、すっかり日が暮れていた。
ミヅキは、どうしたんだろう。駅から出るときは確かにいた。
だけど、橋の上では、どこにもその姿は見えなかった。
まさか。
あれは……あの告白は。
もしかして、さようならの代わりだったのか……?
俺と千夏が、元に戻って……それで身を引いた?
「どうしたの? なんで入んないのよ」
「ん、ああ……」
千夏の言葉に背を押され、俺は扉のカギを開けた。
良い匂い。肉じゃがの匂いだ。
「あれー、公宏、いつの間に料理なんてできるようになったのよ」
まるで、自分の家のように廊下を進む千夏。
「あ、え、いや」
俺は慌てて後を追った。
部屋を、ざっと見回すが誰もいない。
千夏はキッチンで鍋のフタを開けている。
「んー、良い匂い! ……だけどおかしいな、なんで出来立て? あんた、会社終わってすぐ来たはずよね」
うう、鋭い。
「あ、え、いや」
さっきと同じ音声を繰り返す。
やっぱりミヅキはいなくなったのか……。
寂しい。
千夏がそばにいるのに。
俺は、ダメなヤツだ。
俺はミヅキのことも、こんなに好き、だったんだな。
これじゃ千夏じゃないけど、浮気してるようなもんだ。
忘れよう。
何年かかっても、忘れよう……。
千夏が背をかがめて、俺を覗き込む。
「ちょっ、どうしたの? なに? なんで泣きそうなのよ! あんた、ヘンよ」
俺は無理に笑顔を作った。
「いや、なんでもない。喰おう」
そう言って、キッチンの鍋に向かう。
「なんでもないじゃないわよ! おかしいよ! なんで」
千夏の言葉を、突然の呼び鈴が遮った。
「ああー、誰だぁ。こんな飯時に」
俺はわざと大げさに言って、玄関に行った。
ドアを少し開ける。
「デザートを買い忘れていたので、買ってきたんだ」
ミヅキだった。
「え、おまえ、どっか行ったんじゃ……」
彼女は、わずかに眉を上げて、きょとんとしている。
「いや。買い足しに行っていただけだが」
奥から千夏が来る。
「どうしたの。誰?」
まずい。
「あ、え、いや」
うろたえる俺。今日、三度目の音声を発する。
だが、ミヅキは平然とのたまった。
「公宏。彼女とも、これから同居するのだから、挨拶をしておきたい」
「はぁっ? まだ決まったわけじゃ、てか、そういう問題じゃなくて!」
ミヅキはドアを開けようとした。俺は必死でそれを食い止める。
「なにか、問題があるのか?」
「いやだから、微妙かつ繊細な問題があるんだよ!」
「ん? どういう問題だ。教えてくれないか」
俺とミヅキが押し問答していると、千夏がその状況を見てしまった。
怒気のオーラが見える。
「へー! そう! おっかしいと思ったんだぁ、あんなおいしそうな料理とか作ってあるし。あんたって女の子と別れたら、すーぐ次の彼女とか作っちゃう人だったんだ! へー、そう! ふーん!」
ドカドカと俺の目の前にやってきたと思った、次の瞬間。
俺の股間には、千夏のひざが入っていた。
「ぐふ……っ」
断末魔の悲鳴を上げることも出来ない。そのまま崩れ落ちた。
千夏はドアを強く押して、外に出た。
「どいて!」
そこにいたミヅキを突き飛ばそうとする。
ミヅキは、軽く頷いた。
「ああ、そういう事か」
千夏の突き出した腕をひらりとかわし、彼女を後ろから抱えると、まるで円を描くように、玄関に入った。
ミヅキの背中側で、ドアが閉まる。
赤面しながら慌てる千夏。
「えっ、ちょっ、なに? なんなの、あんた!」
ミヅキは、無言で抱きしめた。
「あ……なに……この感じ……懐かしい……あったかい……」
千夏の目から、涙が溢れた。
「なんだかワケわかんない! ワケわかんないけどぉ……っ!」
ミヅキの胸にすがり、号泣した。
しばらくして、千夏は泣きやんだ。
ミヅキは慈愛の眼差しを向けた。
「よしよし、良い子だ」
「子供扱いしないでよ……」
ああ、そうか。千夏は俺と、どこか似てるんだ。
だから、惹かれ合って、反発し合うんだ。
やがて、千夏の攻撃からなんとか回復した俺は立ち上がった。
ミヅキが静かに、千夏へ語りかける。
「わたしは、ミヅキ。公宏が名付けてくれた」
「はぁ? どういうことよ」
ふいに、ミヅキの輪郭がぼやけた。
次の刹那。
いつものエロティックな姿に戻っていた。
スケスケネグリジェに銀髪、牛耳。そして銀の瞳。
「ひゃっ?」
千夏は驚いて離れた。ミヅキの裸体が恥ずかしいのだろう、赤面しながら、震える手でミヅキを指差す。
「ああああんた、何モンよ!」
千夏は、俺が初めてミヅキに逢ったときと同じ言葉を口にした。ちょっと笑ってしまう。
俺はそばに行って、千夏の肩を抱いた。
「彼女は……ミヅキは、なんていうか、人間じゃないんだ」
ミヅキは、ふんわりと浮遊して挨拶した。手を差し出す。
「改めて、初めまして。千夏。よろしく」
千夏は口をぽかん、と開けている。
「あ、え、いや、えーと……」
俺は千夏の手を強引に、ミヅキの手に重ねさせた。
ミヅキが口を開く。
「すまない、千夏。君の彼氏を盗ったみたいな形になって。だが、心配しなくても良い。わたしは人間ではない。人の法の中では生きられない。彼に罪を背負わせてしまうからな。だから、彼の配偶者は千夏、君だけだ」
千夏は握手を乱暴に離し、また真っ赤になった。
「な、ちょっ、まだ決まったわけじゃないわよ!」
ミヅキは、微笑んで続けた。
「しかし、わたしは彼を、君の想いと同じくらい愛している。そして、彼の愛している君も、好きだ。だから」
ミヅキは、千夏のほほに優しく手を当て、音もなく近づく。
「君の事も愛そう」
「え、なに……ちょっ」
ミヅキは千夏の唇に自分の唇を重ねた。
「んん……!」
千夏は最初、ミヅキから離れようと、もがいていた。しかしやがて、うっとりとして、もがくのを止めた。
ミヅキは身体の力が抜けている千夏を支えながら、俺を見た。何かを促すように頷く。
やっぱりこういうことになるのか。
しかたない。
いや、まあそりゃ、これで丸く収まるんなら、嬉しいんだけど。
体力、持つかなぁ……。
「旨い! ミヅキ、旨いよ!」
俺たち三人は、ミヅキの作った肉じゃがを食べていた。正確には、ミヅキ以外だが。
俺と千夏は、すっかりパジャマに着替えていた。
まあ、事後だから当然といえば当然だよな。
千夏は肩にかかる淡い茶色の髪を、首でちょっと直しながら感想を述べた。
「ふん……不味くは、ないわね」
言葉はキツイが、それでも響きは穏やかだった。
俺たちを見ているミヅキは、頷いた。
「ふむ。それは良かった。二人分だと思って、たくさん作ったから、どんどん食べてくれ」
表情こそ変わらないが、いつもよりウキウキした感じだ。
「しかし……ミヅキ、あんな事もできるんだな」
俺はさっきの情事を思い出してしまう。
あれは、人間じゃないからこそできる秘技だった。うん。
頬を赤く染めた千夏が素早く、俺を肘で小突く。
「うご!」
「バッカじゃないの! あああんなの、絶対、普通じゃないわよ!」
「そう言うわりには、おまえ、けっこうスゴイことになってなかったくぁ!」
言い終わらないうちに拳が飛んできた。
「なってない! なってないわよッ!」
俺が殴られた頭をおさえていると、ミヅキが小首をかしげて、微笑んだ。
「人間にはそういう愛のかたちも、あるんだな。とても興味深い」
俺と千夏は言葉に詰まる。
「うっ……うう……」
ふたり同時に顔を赤らめ、うめいてしまった。
夕食が終わり、ミヅキの買ってきたデザートを食べた。
フルーツタルトだった。
「ああ、ここの、旨いんだよな」
ミヅキは俺を見て、微笑む。
「あなたのパソコンで検索した甲斐があった」
俺は、その言葉を聞いて、とあることを思い出した。
そして、もう一度だけ確かめたいと思った。
「俺のお宝画像フォルダ……」
「見た。あなたの好みがよく解った」
俺は真っ白な灰になる思いで、タルトをむさぼり食った。
千夏が口の端にクリームを付けながら俺を見て、きょとん、としていた。
ミヅキが、なにか閃いた、とでもいうように手をパンと鳴らした。
「千夏」
「え、な、なによ」
「君も見ておいた方が良い。あれはキミヒロの好みを知る事において、重要なヒントに成り得る」
俺は、タルトを吹いた。
「うっわ、きったなーい! さっさと拭きなさいよ!」
俺はパニックになりながら、ティッシュでそのへんを拭き取った。
千夏は俺を見下しながら、ミヅキに応えた。
「へぇ、そーなんだぁ。それは参考にしないとねぇ」
「ふむ。では、さっそく見てみよう」
ミヅキがふわりと、俺の部屋に向かう。千夏も、にやにやしながら、あとに続く。
「ちょっ、待て、おまえら! 俺のプライバシーはどーなるんだ!」
ミヅキは、空中で静止した。いつもの考えるポーズで俺のほうを向く。
「ふむ、それは確かにそうだ。すまない、考えが及ばなかった。お互い、全てさらけ出した気になっていたようだ」
千夏がミヅキの手を引っ張って、笑う。
「いーのよ、ミヅキ。公宏にプライバシーがあるワケ無いじゃない!」
「それはどういう事だ?」
千夏はミヅキの疑問に、腕を組んで得意気に答えた。
「だって、あたしたちのペットだもん!」
一瞬、沈黙。
ミヅキは、珍しくハッキリと口元をほころばせて、言った。
「そうか。なら、問題ないな」
ふたりは、また俺の部屋に向かった。
おーい、おふたかたー? って、全く聞いちゃあいませんね。
溜息を吐きながら椅子に座り込んで、頭を横に振る。
「てか、なんでこんなことになってんだ、俺は」
タルトの残りを頬張った。
今までで、一番、甘かった。
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