ぬくもりの居場所
千夏は結局、自分の借りていたマンションを引き払って、また俺と同居していた。
もちろん、ミヅキも一緒だ。
ふたりは家事の情報をうまく交換して、こなしていた。
俺もろくに家事もできないようじゃ今時の男としてどうなんだろうと思い、何度か手伝おうとしたが、いつも邪魔者扱いされた。
そりゃあ、確かにベランダから洗濯物を落としたり、目玉焼きのつもりが油を入れすぎて、謎の卵揚げになったりしたさ。
でも、もうちょっと頑張れば何とかなると思うんだけどな。
何というかミヅキと千夏の作り出す、男が入れない世界にちょっと嫉妬を覚えたりして。
「ん、やっぱ、ここのは美味いな。妹にも分けてやりたいくらいだ」
俺はその柔らかいスポンジケーキに包まれた、滑らかなバナナクリームを味わっていた。
「ん、おいしい」
千夏も珍しく、素直に感想を述べた。
いつものふわふわとした薄物をまとっているミヅキは、俺たちの顔を見ながら微笑む。
「キミヒロ。そう言えば、わたしはまだ、その妹さんには会ってないな」
俺はちょっと考えた。ミヅキの目を見て言う。
「んー。でも、おまえの説明をどうするかなぁ」
隣の千夏がペロリとケーキを平らげて、笑った。
「いいじゃん、別に。人間っぽくなれるんだし。知り合いのお姉さんとかで」
俺はちょっと目を皿に落とす。ケーキが半分、残っている。
「いや……嘘は吐きたくないんだよな」
「じゃあ、正体を教えてもいいんじゃない?」
千夏が俺の皿に手を伸ばして、ケーキを奪おうとした。
「そうだなぁ……てか、おまえ、何も考えてないだろ」
などと言いながらも俺はその手を見逃さず、ピシャリと叩く。
「たっ! なによ! 考えてるわよ! だいたい、そのケーキも別に欲しくないんだけど、あんたが太らないように食べてあげようと思っただけなんだから!」
「ああ、はいはい」
俺は涙目の千夏を横目に、ケーキの残りを頬張ろうとした。
千夏が小さく叫ぶ。
「ああっ……」
俺はかたほうの眉を上げて、にやついた。
「なんだ、やっぱ欲しいんじゃないか」
千夏は真っ赤になって抗議した。
「ち、違うわよ! 辛党のあんたに食べられるケーキがかわいそうなだけよ!」
千夏の言うことは感情があるラインを超えると意味が解らなくなる。
まあでも、そのへんがカワイイとも言える。
結局、ケーキは千夏にやった。
本当に欲しくないんだからね! とかなんとか言いながらも、ニコニコとほおばった。
ミヅキが目を細めている。
「あなたたちは見てて、飽きないな」
突然、玄関チャイムが鳴った。
「ん、誰だ、こんな時間に」
俺は立ち上がり、廊下を玄関に進んだ。
ドアについたセーフティバーをセットして、少しだけしか開かないようにする。
「どちらさま?」
ドアを開けながら覗くと、涙目のジャージ女が立っていた。
「あにき……あたし、もうダメだ」
妹の薫(かおる)だった。
短髪でくせっ毛。色も浅黒い。背は低く、スリムで筋肉質。女らしい柔らかさはあまりなく、いかにもスポーツやってます、という感じだ。
こいつはその運動能力と才能で奨学金を受け取り、体育大学に進んでいる。
今や、学生女子マラソンのホープだ。
だが、さすがに生活費は自分で稼がないといけない。
俺が就職してから、俺たち兄妹は世話になった叔父の家を出た。
それからは俺が妹の面倒を見ていた。
やがて妹が大学に入った時、たったふたりの家族なんだから、これからも俺が生活費はみてやるよ、と言うと、こいつはキッパリ断った。
大学に入ったら俺の金はアテにしないつもりだったという。
俺がいくら説得しようとしても全然、聞き入れなかった。頑固なところは亡くなった親父そっくりだ。
それで、今は安いアパートを借りてひとり暮らしをしている。寮より安いところを捜したそうだ。
女の子のひとり暮らし、しかもそんな安アパートでなんて危険だと思ったが、大学での練習とバイトの生活はかなり大変で、大学に泊まったりして部屋にもあまり帰ってないし、男っ気なんて論外だそうだ。
俺は無言でドアを閉めた。
「ちょっ! 待って、ひどいよ、あにきぃっ!」
セーフティバーを外して、もう一度、扉を大きく開けた。
「バカ、慌てるな。おまえの四畳半のアパートと違ってセキュリティがあるんだよ」
妹はうめいた。
「うぎゅ……」
「とりあえず、入れ」
入れてもいいものかどうか一瞬、戸惑った。
でもまあ遅かれ早かれ、俺の事情は妹にも伝えないといけない。
なら、せっかく妹のほうから来たんだから、この機会に話をしよう。そう思った。
リビングに戻ると、ミヅキは人間の姿になっていた。
「こんばんは、兄がお世話になってます」
薫が千夏に挨拶する。
「こんばんはー。薫ちゃん、元気ぃ?」
にこにこと手を振っている。
「千夏さん、おひさでーす」
薫は同じようににこにこと手を振って応える。
ミヅキの方を向くと、俺の脇腹を肘で小突いた。
「んで、誰よ、あのスーパーモデルみたいな人は?」
俺はお互いを紹介した。
「あ、ああ、えーとコイツは俺の妹で薫。この人……は、ミヅキって言って、その……話せば長いんだけど」
ミヅキは妹に近づく。
「うむ。こんばんは。初めまして、ミヅキです」
薫がミヅキをちょっと見上げてすぐ頭を下げた。
「あ、はい。こんばんは、初めまして。公宏の妹の薫です」
次に薫が頭を上げたとき、ミヅキはその唇に自分の唇を重ねた。
「んん!?」
薫はあまりのことに硬直している。
女からいきなりキスされるなんて、普通ないよな。いや、もしかしてキス自体、初めてだったのかも知れない。
だとしたら、すまん妹よ。ミヅキはそういうヤツだ。
やがて、ゆっくりミヅキは離れた。
薫はぐったりと倒れ込みそうになった。急いで支えてやる。
顔は紅潮し、瞳は潤んでいる。息も荒い。
「あ、あにき……これって、外国じゃ普通の挨拶、だよね」
いやたぶん、よその国でも挨拶のときは口にキスしないと思うぞ。
「ミヅキさん、外国に住んでたんだね、カッコイイなぁ……」
うーん、そりゃあ、世界中の色んなトコに居たとは思うけど。
いずれにせよ、色々勘違いしているようだ。
急に薫は起き上がり、ミヅキに抱きついた。
「お姉様って呼んでもいいですかっ?」
って、ええええーっ!
ミヅキは、こともなげに答える。
「うむ。構わないぞ、カオル君」
薫は目を輝かせてさらに強く抱きつき、顔をミヅキの豊満な胸に埋めた。
「おねえさまぁっ!」
俺がバカみたいに口を開けてそのようすを見ていると、したり顔の千夏が寄ってきた。
「これは、刷り込みってヤツね」
どっかで聞いたことがあるぞ。
「えーと……ひな鳥が初めて見た動く物を、なんでも親だと思い込むヤツか」
「そそ。薫ちゃん、あんまり経験ないんでしょ? それでいきなりミヅキじゃあねぇ」
うーん、結果的に良いんだか悪いんだか。
俺は、ふと玄関先で薫が言っていた言葉を思い出して、問いかけた。
「そう言えば、薫。なにか、俺に相談があって来たんじゃないのか」
薫はミヅキから少し離れて、暗い顔になった。
「うん。走る事なんだけど……ちょっと、自分の限界っていうか、そんなのを感じちゃって……記録も伸びないし……これ以上、無理なのかなって……」
ミヅキは口元を緩めて、薫の肩に手を乗せた。
「人間には、確かに限界はある。だが、それは人間だけではない。この宇宙全てに限界はあるんだ。だから、そのことで悩む必要はない。それよりも問題なのは、自分で作り上げてしまった自分の中の限界だ」
薫がミヅキを見つめた。ミヅキの瞳には慈愛の色が浮かんでいた。
「人間の心は強い力に溢れている。そしてそれは諸刃の剣だ。悪いことを信じれば悪くなるし、善いことを信じれば善くなる。だから、自分の中の限界などという、悪いことを信じてはいけない。今、自分が少しでも良くなれることを信じて、やっていけば良いんだ」
ミヅキは薫の頭を柔らかく撫でた。
薫の顔はまた激しく赤くなる。
「おねぇさンまぁぁぁぁっ!」
よく解らない発音でミヅキに飛びつく。妹もまた号泣した。
「それで、薫」
妹が落ち着いたのを見計らって、俺は言うべきことを言おうとした。
ミヅキはそれを察したのか、俺を見て頷いた。
妹の肩を自分から少し、離した。
「カオル君。突然だが、わたしは人間ではない」
「はぇ?」
ミヅキはいつもの、ひらひらのすけすけに戻って見せた。
「ほわ――っ?!」
妹は不思議な悲鳴を上げ、宙に浮くミヅキを見上げた。
「お姉様、すごいよっ! マジシャン? それとも人間じゃないなら宇宙人?」
「いや、わたしは人間の基準で言うなら、妖怪みたいなものだ」
妹の目はよりいっそう輝いた。
「そうなんですかっ! でも、どっちかって言うと妖精ですよっ! とってもきれいですっ!」
ミヅキはその真っ直ぐな言葉に頷いた。
「そうか。ありがとう。でも、怖くはないか」
薫は首を横に振った。
「全然怖くないです! それにあたし、好きな人はどんな風になっても好きだから」
ふんわりと、妹を抱きしめるミヅキ。
「ありがとう」
ミヅキの閉じた瞳から、少し光るものが見えたような気がした。
あ、そうか。
ミヅキも本当は寂しかったのかも知れない。
いつも自由ということは、いつも孤独ということと同じだ。
長い間、彼女は寂しくて、人間に触れたくて。
でも、怖くて。
そしてついに自分の自由を捨ててまで、俺を選んだ。求めた。
俺も彼女を受け入れた。受け入れられた。
ミヅキは薫を離して、ちょっと距離を置いた。
俺たち三人を見渡す。
彼女は、穏やかに話し出した。
「みんな、ありがとう。わたしはあなたたちのおかげで、愛すること、愛されることを知った。もはや、離れがたい。だが、わたしは問いたい。みんなは、わたしがここにいても良いと思うのか。少しでも嫌なら、わたしはここを去ろう」
千夏が間髪入れずに真っ先に答えた。
「バッカじゃないの! 誰もミヅキの事、嫌いなわけないじゃない! 居たいなら、ずっと居れば?」
薫も追って言う。
「そうですよっ! ずっとそばにいてください! 初対面であたしの唇を奪った責任、取ってくださいねっ!」
後半はちょっと冗談めかしていた。
視線が俺に集まった。
俺は深呼吸してミヅキに告げた。
「ここはもう、おまえの居場所だよ。そう、出会った時から、ずっとな」
ミヅキはかすかに泣き笑いをした。
瞳の色と同じ蒼銀の涙を、ぽろぽろとこぼす。
それはまるで星のように宙を漂った。
俺たちは星の粒をかいくぐってミヅキのそばに行く。
それぞれ、思い思いにミヅキの手を握った。
温かい。
そのぬくもりは、人種や性別、さらには種族をも越えて愛し合うことができるという、証なのかも知れないと思った。
END
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