「トイレ、どこだろ」
気分が落ち込んでいても生理現象には関係ない。
俺はトイレを探して階段を下りる。
一階の玄関ホールに着いた。
とりあえず、階段の横にあるガラスが填め込まれたドアから中をちらりと覗く。
小さなガラステーブルと革張りのローソファがある。
「リビングか……」
右奥には段差があり、その上のほうにはキッチンと大きな食卓が見える。そこの壁には、なにやら巨大なスクリーンが填め込んであった。
「すげぇ。あれってテレビだよな……。なんか、悪の総統とかが指令出しそうだ」
驚きながら、半分呆れながら、踵を返して背中側にあるドアを見た。そちらは重厚な感じの黒い木でできた、立派で大きなものだった。中は見えないようになっている。
「んー。こりゃ応接室って感じだな……」
そう直感して、足の向きを変える。
階段の横の廊下を奥に進んだ。
突き当たりの右側が明るい。半透明のドアだ。その前まで行ってみると、かすかに奥のほうから聞き慣れたふゆなの声がする。
「あ、脱衣所か」
そう考えた瞬間。ふゆなの呪文が蘇った。
『お風呂、覗いちゃダメだよ』
俺は顔中に物凄い勢いで血が駆けめぐるのを感じた。
素早くそのドアに背を向ける。
頭の中では涼夏の体操着姿が浮かんでいた。ウチの学校は、もはや全国的に死滅したブルマをなんとか死守している。だから、それが俺にとって最も涼夏の身体の線をイメージしやすいのだ。
引き締まった長い脚。柔らかそうな尻。けっこう大きな胸。背が高いのもあって、高一とは思えない見事なスタイルだと思う。
「いやいや……」
顔をぶるぶると振り、頑張って息を整える。
実際、俺の中では涼夏の裸なんて具体的には想像できない。確かに色々エロいものは見てるけど、それでも本物を見たことなんてない。まあ妹や母さんのは見たことあるけどそれだって小さい頃だし、性的なものとしては意識しないし。
だいたい本当にヤっちゃった経験、いや、それどころか付き合ったこともないんだから、解らなくてもしかたないだろう。
「ふー……」
なんとか落ち着いて、ふと視線を上げた。
「あ」
目の前には“トイレ”という三文字が書かれたプレートが貼ってある、やや細いドアがあった。
「なんだ、こんなトコにあったのか」
なぜか俺は別に悪いこともしてないのに、キョロキョロと辺りを見回して中に入った。
用を足して、トイレから出る。
何気なく向かいのドアを見て、俺は息を飲んだ。
二つの人影が動いている。風呂から上がった涼夏とふゆなだ。ドアは半透明なのでハッキリとは見えないが、それでもどちらがどちらなのかは区別できた。明らかに身体の線が違う。ふゆなは、どう見ても子供だ。背も低いし、出るべきトコも全然出てない。年齢で言えば涼夏とひとつしか違わないのに、いったいこれはどういうことなんだろう。充分に栄養は摂ってるハズだろ。
それに比べて。
涼夏はやっぱり……すごくいい体だ。
「うわ、俺、エロおやじかよ」
真っ赤になりながら、自分の思いに小声でセルフツッコミを入れてしまう。
でも、視線を涼夏から離すことはできなかった。
涼夏とふゆなの二人は身体を拭きながら、なにか和やかに話している。
脱衣所のライトに照らし出される涼夏の身体は風呂上がりのせいか、いつもよりピンク色だ。ふたつの胸の膨らみは、身体を動かすたびにフルフルと揺れた。下のほうも無防備だ。チラチラと、少しだけ影よりも濃い黒さが見え隠れする。
「う、ヤベ」
俺の下半身が男の反応をし始めた。気付くと息も荒い。
「く。これ以上ここにいたらダメだ。見つかるのが一番マズイ」
俺は股間を押えて前屈みになりながら、こっそりドアの前から涼夏の部屋に戻った。
「こ、これは不可抗力ってヤツだからな、俺が悪いんじゃないぞ」
そう自分に言い聞かせながら、二人を待った。
やがて、涼夏とふゆなが仲良く紅茶をトレイに乗せて運んできた。おいしそうな洋菓子も乗っている。
初めて見る涼夏の私服はなんだか新鮮だ。
黒い長袖のTシャツは、風呂上がりのせいなのか、その胸を強調するかのようにピッタリと身体に張り付いている。下はデニム地のスカート。こちらも腰や尻のラインがクッキリ出ていた。そこからスッと伸びている脚は黒のニーソックスに覆われている。それらのどれにも目立つ模様や文字などはなく、彼女らしくシンプルなものばかりだ。
その姿を見ていると、思わずさっき見た曇りガラス越しの裸が頭に浮かんでくる。俺は今にも赤くなりそうな顔を隠すように目を逸らしてしまった。だが、涼夏は特にそれに気が付かない様子で挨拶をしてきた。
「待たせたな。済まない」
ふゆなが無駄に元気よく、涼夏の真似をした。
「すなまい!」
俺はすかさずツッコむ。
「なにその新しい忍術」
ふゆなは一瞬にして真っ赤になった。
「な、なによ! わざとだもんね!」
「なんでわざと間違える必要がある?」
「そっ、それは……おりじなりてぃ?」
「意味、解ってねーだろ」
ふゆなは涼夏に泣きついた。
「にゅー、バカがいじめるぅ!」
涼夏はほんの少し、口元を緩めた。
「明信君にそんな事を言わないように言ったじゃないか。ほら、座ってお茶を飲みなさい。落ち着くぞ」
美しい動作で紅茶とお菓子を並べる涼夏。
ふゆなは何か納得できないようすだったが、とりあえずは素直に座った。
「いただきます」
俺とふゆなは、ほぼ同時にお茶を飲む。
「あ、おいしー」
「ん、旨い」
涼夏が俺の正面に座りながら、また少し笑う。
「そうか。良かった」
目を細めた彼女は、とても柔らかい表情に見える。
俺も思わずニッコリしてしまう。
いいなぁ、キレイだなぁ。
「お兄ちゃん、キモイ」
ふゆなが涼夏よりも冷静な声で言い放った。
涼夏がちょっとキツイ目で、ふゆなを睨んだ。
「こら。だからそう言う事を言っては駄目だ」
ふゆなは、ちょっと口を尖らせながらもしぶしぶ承知した。
「はーい」
「おまえ、委員長の言うことはホントよく聞くな」
俺は涼夏に向き直り、笑った。
「助かるよ、委員長」
涼夏は口を付けていた紅茶を降ろす。軽く頷いて眼鏡を直すと、澄んだ声で意見を述べた。
「わたしは、ふゆなちゃんが好きだ。だからこそ、ちゃんとして欲しいんだ」
ふゆなに向かって身を乗り出すようにして、その目を見据えた。
「そうすればもっと可愛く綺麗になれると思うぞ」
それを聞いて耳まで真っ赤になるふゆな。
相変わらず真っ直ぐな言葉だ。いっそすがすがしいくらいだ。
涼夏は思ったことを包み隠さずに言う。素直だ。そして、その態度はいつも冷静。クールだ。
素直で、クール。
それはきっと他人の誤解や偏見を招いただろう。
彼女だって人間だ。表情や態度にこそ出さないが、そんな誤解や偏見に心の中では傷ついたり、悩んだり、泣いたりしているに違いない。しかし、それでも彼女はクールな態度を貫き通している。強く美しいと思う。
そんな涼夏の心の支えに少しでもなれるなら、俺はこの身体を、命を張ろう。
涼夏のことを純粋に大事にしたい。守りたい。
そう、思った。
楽しい時間は瞬く間に過ぎていく。
俺はケータイの時計を見た。
「あ、もうこんな時間か……じゃあ……そろそろ帰るよ……」
その声の最後が弱々しくなった。
離れたくない気持ちがそうさせたんだ。ちょっと恥ずかしい。
そう思っていると、涼夏が俺の顔を見ずに遅いタイミングで返答してきた。
「……そうか。そうだな……」
彼女の声も珍しく張りが無かった。
見ると、ややうつむき加減のまま動かない。
どうしたんだろう。何か考え事かな……。
少しの沈黙があった。
ふいに、ふゆなが俺の袖を引っ張る。
「今日は楽しかったね、お兄ちゃん」
俺は、ハッとしてそれに答えた。
「あ、ああ。そうだな。おまえなんて風呂までもらったもんな」
ふゆなはニッコリして、話を涼夏に振る。
「涼夏さん、また遊びに来てもいいですか?」
涼夏もまた、ハッとして顔を上げた。
「あ、ああ。良いぞ。でも、わたしはいつも委員会で遅いからな。平日のふゆなちゃんが帰る頃には、ここには誰もいないぞ」
ふゆなは、まるでその返答を予測していたように、すぐ反応した。
「じゃ、土日に! 来るときは連絡しますんで、ケータイのメアドとか番号を教えて下さい!」
「ふむ。解った」
涼夏は軽く頷いて、立ち上がった。
カバンを開き、ケータイを取り出す。最新型だった。
俺は思わず声を上げた。
「あ、持ってたんだ」
涼夏が小首をかしげた。
「ん? これでも一応、今時の女子高生だからな。なんだ、わたしが携帯電話を持っていると何か問題でもあるのか」
その響きには、ややトゲがあるように聞こえた。
俺は慌てて答える。
「あ、いや、この部屋にさ、そのテレビとかパソコンとかもなくて本とかばっかりだからさ、使わない主義なのかなーって」
涼夏は首を横に振った。
「いや、別にそういう訳じゃない。確かにテレビはあまり見ないのでここには置いていないが、パソコンならノートタイプのものが机に入っているぞ」
ケータイを持ちながら器用に机の引き出しを開ける。何も持っていないほうの手で、ひょいと小さめのノートパソコンを取り出して見せた。それもまた最新型だった。
「さすが委員長だな。やっぱ、なんでもできるんだ」
涼夏は無表情で俺を見つめた。
「いや今時、誰でもパソコンくらいできるんじゃないか?」
うう、そりゃそうだ。でも、ホントにちょっと凄いと思ったんだよ。だって、そもそも勉強も運動も出来るんだぜ? しかも美人で声もキレイでスーパーモデルなプロポーション。その上、機械音痴ってワケでもないんだからさ。完璧超人じゃんか。それに比べて俺は……。
また気落ちしそうになった俺の耳に、涼夏の言葉が入ってきた。
「でも、君に褒められるのは嬉しい。ありがとう」
涼夏はそう言って、ややうつむいた。
もしかして照れてる……のかな? いや、まさかな。
涼夏は次の瞬間、何事もなかったかのように顔を上げて、ふゆなのそばに戻った。
「さあ、ふゆなちゃん。連絡先を交換しよう」
「はーい」
ふたりはお互いのデータを赤外線通信で交換した。
それを見ながら、俺も物凄く涼夏のデータが欲しいと思ったが、結局言い出せなかった。
俺は涼夏の家の門前で、帰りの挨拶をしていた。
「今日は色々、気を遣ってもらってごめんな。ありがとう」
涼夏が髪を直しながら、答える。
「いや、こっちこそ送ってもらった上に無理を言って悪かったな。ありがとう」
俺はニッコリ笑う。
「気にすんな。んじゃあ、また明日な。おやすみ」
「おやすみなさい、涼夏さん!」
俺はいつものように手をひらひらと振って、ふゆなと道を歩き出した。
あ、そう言えば涼夏が妹と風呂に行くとき、涼夏も俺と同じように手を振ってたな。
あれって……俺の真似してたのかな。
いやーん! うそーん! マジでー?
思わず、赤くなりながらくねくねしてしまう。
ふゆなから絶対零度の溜息が聞こえた。
「はぁぁぁ……」
しかめっ面で頭をおさえている。だが、キモイと言わなかっただけマシだ。涼夏の教育は見事に浸透しているようだ。
俺たちはすっかり暗くなってしまった駅への道を歩いていく。
ふゆなが前を向いたまま、ぽつりとつぶやいた。
「で。まずはこれ」
俺は反射的にふゆなを見た。
ふゆなはケータイを取り出して、振った。
「う……!」
涼夏の連絡先データに対価を支払えということか!
だが、ふゆなは意外なセリフを続けた。
「ま、これはどっちかっていうとオマケみたいなもんなんだけどねぇ」
なんだ、まだ隠し球があるっていうのか?
「それ以外に、何が――」
言いかけた俺の口に人差し指を突き出す。
「見たよね?」
「な、なにを」
「注意したよね?」
「えっ」
「覗いちゃダメだよって」
「うぅッ!!」
ガラス越しに見た涼夏の裸が頭に浮かんで、俺の顔には一気に血が昇る。真っ赤になると同時にめまいがする。
「あたしが気付かないとでも思ったぁ? 甘いなぁ。でもさ、涼夏さんは眼鏡も掛けてなかったし、態度から見ても絶対気付いてないんだよねー。ま、そーゆーことで、ね?」
俺はふーらふら、よろめいた。もはや足元はおぼつかない。
ふゆなはニコニコ顔でそんな俺の腕をとり、支えてくれた。全身から力が抜け、妹に引っ張られる姿勢になっている。
「あたしも見られて、そりゃあ恥ずかしいけどー。まあ家族だし、大昔には見られてるからさ、あたしの分は請求しないよ。優しいでしょ?」
妹の皮を被った悪魔は、いったん息を吸って。最高の笑顔で言い放った。
「二つ合わせて大特価! 一万円ポッキリ!」
俺はその言葉にただただ、壊れた人形みたいにうなずきながら。
夜道を引きずられて行くのだった。
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