わたしは藍色のセミダブルベッドに寝転がっている。
腕を天井に向けて伸ばし、その両手の間にある細い金色のリボンを見つめていた。
そうやって、ずっと今日の風光(かざみつ)兄妹のことを思い出していた。
「ふむ」
やがて、わたしは決意した。
明日、彼に……明信君に告白しよう。決着を付けるんだ。わたしの気持ちと……たぶん、彼の気持ちにも。
「ふゆなちゃん、ありがとう。勇気をくれて」
そう、勇気。
ゲーテも言っている。
『財貨を失ったならば、また働いて取り戻せば良い。名誉を失ったならば、また頑張って挽回すれば見直される。だが、勇気を失ってしまったならば、産まれてきたことを悔いるしかない』
少し違うかも知れないが、わたしはそう受け止めている。
勇気。
告白する勇気。
人と関わることを避けていたわたしは結局、臆病者だったんだ。怯えて、自分自身に嘘を吐いて、逃げていたかった。
あの日――自己紹介をした一学期最初の日。今思えば、明信君の哀しそうな瞳の色が気になったのは、わたしの心を見透かされたように感じたからだろう。
わたしは、息を大きく吸い込んで。
ゆっくり一分ほどかけて、吐いた。
深呼吸だ。
「よし!」
気合いを入れて、告白の練習をしてみる。
「明信君。好きだ。結婚してくれ」
リボンに向かって言い放つ。
しばらくすると。
わたしの手は震え出し、心拍数が急上昇した。
体中に血液が巡る感覚がある。苦しい。息が上がってしまう。
「はぁっ、はぁっ……」
のどが無性に乾く。目が潤む。今にも雫がこぼれそうだ。それに……わたしの女の部分が反応を示している。熱い。
「うう。これは……これが恋というものか」
わたしはベッドから起き上がると、一階のキッチンに早足で向かった。
リビングを抜け、ダイニングテーブルの奥にあるキッチンに入る。
壁際にある冷蔵庫を開け、500ミリリットル入りペットボトルの天然水を掴んで、一気に飲んだ。
「ん、ん、ん……」
おいしい。胃に水が染み込んでいく。でも冷たい水は身体に悪いな。一気飲みなんてこんな姿、明信君には見せられない。恥ずかしい。
「ふはぁ」
さまざまな考えを、息と共に吐き出した。なんとか人心地つく。
わたしは空になったペットボトルを潰し、分別して捨てる。
もう一本冷蔵庫から取り出して、ダイニングテーブルまで移動した。
後ろに倒れ込むように椅子に座り込む。するとその椅子は、びっくりするくらい軋んだ。イギリスのアンティークだかなんだか知らないが失礼な。ちょっと苛ついたが、どうすることもできないので放置することにした。
「ふぅ……」
わたしはしばらく、ダイニングテーブルに上半身を投げ出すような姿勢でいた。
冷水の入ったペットボトルを傾け、ほほに当てる。冷たさが気持ち良い。頭に血が上がって、のぼせているせいだろう。
静かだ。かすかに冷蔵庫のモーター音がする以外、何も聞こえない。
窓からの月明かりによって、テーブルに落とされている庭の木の影が風でわずかに揺れた。
『明信君。好きだ。結婚してくれ』
さっき、わたし自身が言った告白のセリフを思い出した。
また動悸が激しくなる。
待て。待て待て。何も考えず口にしてしまったが、いくらなんでもそれはどうだろう。
「結婚……」
そう口を動かすと、めまいにも似た天地が逆になるような感覚が襲ってきた。
「うう」
身体を起こし、また水をがぶ飲みした。
「ん、ん、ん……!」
木のテーブルにペットボトルを置く低い音が響く。
「っはぁ……」
わたしの吐息は半分、溜息だった。
「人を好きになるというのは、さまざまな困難に立ち向かわなくてはならないとは聞くが、まさか自分自身が敵になるとは思っても見なかった……」
頭を振って姿勢を正す。
また深呼吸をする。
よし。もう一度、最初から告白のセリフをちゃんと考えよう。そうしないと彼に失礼だ。
それからわたしはキッチンで、延々と考え続けた。
母が帰ってきて、わたしを見て悲鳴を上げるまで。
俺と妹は家に帰るとすぐに着替えて、やや遅い夕飯を食べた。
母さんと、珍しく早く帰っていた親父、俺とふゆな。家族四人で今日のことを話しながら。
母さんはニコニコとお茶を注ぐ。
「やっぱり受けたのねー、あき君のクッキー。おいしかったもんねぇ」
「いや、まあ、うん」
俺はちょっと照れ笑い。親父がそのお茶を受け取り、すすった。
「で、その花鳥(はなとり)さんだっけ、そんな美人でスタイルいいのかー。じゃあ今度連れて来いよ、日曜なら家にいるようにするから、な? な? 絶対な?」
親父のにへっとしただらしない顔を見た母さんのほうから、ドス黒い闘気が放出された。だが、母さんの顔はさっきと同じ、いや、より一層の超スマイルだった。
「あーなーたー?」
「あっ、いや、その、こいつにガールフレンドできたなんて初めてじゃないか、だから、見てみたいのは親心ってヤツさ。ホントになんも下心とかそんなもんはないぞ、ホントだぞ? ホント」
親父のひたいには、いやーな汗が浮いてきている。まさにヘビに睨まれたカエル。
自業自得だ、と思いながら無言で俺もお茶をすすった。
食後。
母さんは俺に食器洗いを任せると、親父の耳を引っ張って二人の部屋に入った。いつものように、ふゆなは先に部屋に戻る。
「ふゆなのヤツめ」
俺は皿を洗いながら、帰り道でのことを思い出した。
結局、俺は悪魔の口車に乗る以外の選択肢を持っていなかったから、涼夏のケータイデータ料と口止め料をツケにした。
「仮にも実の兄に、そんなことしないだろ……常識的に考えて」
でもまあ、メアドと番号は手に入ったワケだから良しとするしかない。
流し台に向かって、思い切り溜息を吐く。
ふゆなのことについて思考が途切れると、今度は涼夏のことが急速浮上して来る。
ゆっくりと、その名を口に出してみた。
「りょうか……」
突然、馬の大群が駆け巡るような轟音が響いた。
なんだこれ! 俺の中を5.1チャンネルの大迫力で馬が走り回ってる?!
うるさい。なんとかしてくれ! 熱い! 息が詰まる! 立っていられない!
「はぁっ、はぁっ!」
激しい鼓動の音だった。まるで全身が心臓になったみたいだ。
うわ、ダメだ。 死ぬ。死んでしまう。
慌てて、そこにある浄水器付きの蛇口から直接、水を飲んだ。
「んぐ、んぐ、んぐ……」
顔の横から水が流れ落ちるが気にしない。
ひとしきり、水を飲むと口を離した。
「うっはー! うめぇ!」
口を寝間着代りのジャージのそでで拭った。
「ふぅ――……」
深く息を吐く。
しばらくして、情けない言葉が口から漏れた。
「どうしよう……」
それ以外、言いようがない気持ち。
告白しちまえばいい。それは解ってる。でも、怖い。
もし、告白したとして。あの鋭い視線で蔑むように睨まれたら、いや、まるで汚いものでも見るように顔を背けられたら、いやいや、もし見たことないような嫌な顔して『気持ち悪い』とか言われたら。
俺、学校辞めて旅に出るよ。うん。きっと。
ひきこもったら、家族に迷惑掛けるしな。うん。そうそう。
それでいつか帰ってきたときには、涼夏もふゆなも知らないヤツと結婚しててさ。涼夏は物凄く幸せそうでさ。家に戻ってみると俺の部屋、ふゆなの旦那が使ってたりして。それでまた旅に出るんだ。今度はもう帰らないつもりでさ。あは。あははは。
「お兄ちゃん、またバカって呼んでいい?」
寒く暗い妄想に浸っていると、背中側から声がした。振り返って見ると、ふゆなが冷たい目で腕を組み、立っていた。髪を下ろし、普段着からピンクのパジャマに着替えている。すっかり寝る体勢だ。
俺は自分自身を笑った。
「ああ……ホントにそうだから、もうバカでいい」
ふゆなが突然、ダッシュしたかと思うと俺の腕に噛み付いた。
「あだだだッ! やめろ、こらなんなんだ!」
妹は口を離すと、俺を睨み付けた。
「もっとハッキリシッカリキッパリしなさい!」
それだけ言い放って、ふんっ! とばかりに踵を返した。
すたすたと自分の部屋に戻ってぴしゃりと扉を閉める。
「……なんだったんだ、あれは」
俺は噛まれた腕をさすりながら、狐につままれたような気分で立ち尽くした。
皿洗いも終わり、俺も自分の部屋に戻った。
ベッドに仰向けに転がる。
「はぁ……でも、そうだな。ちゃんとこの気持ち、伝えないとな……」
でも、いつになるか……。
好きになればなるほど、フラれたときの反動はデカい。だから今、俺はそれがめちゃめちゃ怖い。怖過ぎる。
だからといってこのまま、今の関係で良いとも思わない。だって俺は涼夏……が欲しいんだから。そばにいて欲しい。彼女のことをもっと知りたいし、そばにいたい、ずっと。どうしても、どうしても、湧き上がる想いがあるんだ。
でも、なぁ。フラれたくねぇ……。
そんなループになった考えに疲れ果てた頃には、もう眠る時間だった。
「はぁぁぁぁ……」
俺は自分に呆れて深い深い溜息と共に、眠りに就いた。
次の日。
俺は、涼夏の顔が見たくて早起きした。
良い天気の中、交差点まで走った。
駅まで行ったほうがいいかな……いや、でもそれじゃなんか、なれなれしいか。
そう思って、交差点で彼女を待った。時間に正確な彼女はもう少ししてから来るはずだ。
しばらくすると彼女が駅のほうから来た。たくさんいるウチの生徒の中から、昨日より素早く見つけた。
俺は走り寄って挨拶した。
「よ、委員長。おはよう」
「うむ。おはよう。風光(かざみつ)」
いつもと変わらない涼しげな顔で、返答してきた。
だが、俺はその表情が一瞬、変化したのを見逃さなかった。ほんの少し、目を見開いたのだ。
なんで驚くんだろ……やっぱ、昨日のことがあったからって、なれなれしすぎたかな……。
俺はまた気分が沈み出した。
彼女は俺に背を向けると学校のほうへ進んで行く。俺は慌ててそれを追った。
とにかく、横に並んで話しかける。
「あ、あのさ。今日も良い天気だよね」
「ああ。そうだな」
沈黙。
「もうすぐ期末テストだね」
「ああ。そうだな」
また、沈黙。
彼女を見ると姿勢はいつも通り良いんだけど、顔はうつむいて視線が下がっている。
俺? やっぱ、俺のせい? うっとうしいとか思われてる? ううう。
それから教室に入るまで、いや、入ってからも俺と委員長はお互いに無言だった。
俺は授業中も休み時間もずっと彼女を見ていた。だが、委員長は俺の視線に気付くと、顔を逸らした。
もうダメだ。破滅だ。俺の人生、終わった。
そんな世界に憎悪を抱くような昼休みの終わり頃。
教室には、おおかたのクラスメイトが戻ってきていた。
俺は魂の抜け殻のように昼飯も食わず、ぼんやりしていた。
目は机のもようの一点だけを見つめていた。
ふいに女子のスカートがその視界に入った。それは机の前に来て止まった。
顔を上げると。
「い、委員長? ど、どうしたの」
いつもにも増して、冷静な眼差しで俺を見下ろしている。いっそ、冷酷とも思えた。
彼女は一度、深呼吸した。
なんだか知らないが物凄く怒っているみたいだ。
俺は泣きそうになりながら、とにかく謝ろうと思った。
だが。
次の瞬間、彼女の口からは俺が予想もしなかった言葉が飛び出した。
「風光明信君。わたしはきみが好きだ。わたしと男女交際してくれないか」
教室の時間が止まった。
その中でただ一人、時間が流れている人間がいた。
委員長――涼夏だ。彼女の顔は見る見る赤くなっていった。
しかし表情や視線は変化なし。ほほだけが紅潮している。
俺もたぶん、同じ状態だったと思う。
顔は驚きのあまり無表情で。
ただただ、顔が熱くて。
その時、俺がどうしたのかハッキリとは覚えていない。
とにかく、精一杯うなずいたのだけは記憶にある。
「はい。はい、はいはいはい……っ!」
涼夏は優しい声で俺のほほを撫でた。
「『はい』は、一回で良い」
教室内が揺れた。
あとから戻ってきた人間は何が起きたのか、ワケがわからなかったらしい。
涼夏は軽くみんなに会釈して、教室を出て行った。
もう昼休みも終わるのになんでだろうと思って席を立つ。
「おっ、さっそくデートか?」
「風光君、エローい!」
クラスメイトたちが囃し立てる。その声援だかなんだかわからないものを振り切って、後を追った。
「あーもう恥ずかしい! 委員長ぉ! コクるなら、もっと地味にしてくれよー」
階段に差し掛かるところで、涼夏をみつけた。
足元がふらふらしている。
「あぶねぇ!」
俺が彼女を抱きとめた、そのとき。昼休みが終わるチャイムが鳴り響いた。
「おわ?!」
急に彼女の重みが俺の腕だけじゃなく、身体全部に掛かる。俺は姿勢を変えてひざを突き、太ももに彼女を乗せるように抱きかかえた。
なんだかぐったりしている。これ、ちょっとヤバいんじゃないか。
彼女の口元に耳を近づけてみた。
静かな寝息が聞こえる。眠っているようだ。ひとまず安心した。
ほっとしたら、その柔らかさと重さが今度はヤバかった。
肉体のリアルさがそこにはあった。
俺の腕と太ももに感じる柔らかさは、ずっと支えていたい気持ちにさせる。
俺が支えている重み。女の子は軽いなんていうけど、よく考えれば同じ人間なんだ。実際は男と比べて軽いって程度なんだよな。
この重さは、ハッキリ言って普段あまり持つことのないほどの、ずっしりとした重さだ。
だけどそれだからこそ、その存在により価値があるんだ。
今までがんばって生きてきた証の重さ。
愛しい、重さ。
その顔を見る。
眠っている彼女の薄く開いた唇が、魅力的だ。
さらさらとして良い香りの髪。美しい黒さ。
やっぱり、俺、涼夏が好きだ。
俺は気合いを入れて、彼女を抱えた。お姫様だっこってヤツだ。
なんとかそのまま、保健室に連れて行った。
「う……ここは……あ、明信君?」
涼夏は目を覚ました。
「お、大丈夫か? いったいどうしたってんだ。その……告白したと思ったら、そのまま教室出てって。階段で……た、助けたときにはもう、寝てたじゃないか。もう放課後だぜ」
彼女は、たぶん少し笑った。
「うむ。昨晩は君に告白するセリフを、延々と考えていたからな。ほとんど寝てないんだ」
俺の顔は夕日より赤くなる。
涼夏は手を伸ばして。
「今日は君の返事がどんなものであれ、保健室で眠るつもりだったんだ。だが、色良い返事を聞いて気が緩んだのだろう。階段のあたりで意識が無くなった。また、君に助けられたな。ありがとう」
俺のほほをまた撫でた。俺は目を逸らしてしまう。
「ったく……バカだな」
彼女の目がまぶしそうに細められた。
「そうか……ふゆなちゃんのいう、バカという言葉にも、そういう意味が隠されていたんだな」
俺は全力で否定した。
「いや、あいつの言葉にはぜってーそんな意味はねぇ!」
涼夏は俺のほほを撫でながら、また口元を緩めた。
「これから、恋人としてよろしく頼む」
心臓が大きく鳴った。
「……あ」
「ん? どうした」
俺は深呼吸した。俺には言わないといけないことがある。ちょっと後出しジャンケンみたいでずるいかもしれない。でも、今しか言うチャンスはない。
「お、おお俺も、委員長のことすっげー好きだから! これからもよろしくな!」
彼女は、大きくうなずいて俺を抱きしめてきた。
ふたりのドキドキが、夕焼けに染まった保健室にいつまでも響いていた。
END
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