迷宮の森 [5]

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 朝。
 わたしは、熱めのシャワーを頭から浴びていた。
 目を開けると、わたしの体に沿って湯が流れ落ちて行くのが見える。
 この胸の膨らみ。わたしは女なのだと、改めて意識してしまう。

「はぁ……」
 今日も、ため息を吐く。
 昨日は予習もしないで、そのまま寝てしまった。
 今まで、そんな事は一度もなかった。
 昨日から初めての事ばかりが起きて、どうも頭が混乱している。
 とにかく、わたし自身にわたしの気持ちが解らないのだから、幾ら考えたところで答えが出るはずもない。

 やはり、そうだな。彼と話そう。
 何かきっかけが見つかって、自分自身の気持ちが理解できるようになるかも知れない。

 カランを勢いよく締めて。
 わたしは動き出す。
 髪を乾かし、バスルームを出る。
 制服に着替えて、リビングに行く。
 窓に差し込む朝日がまぶしい。
 昨日とうって変わって、良い天気だ。
「おはよう、涼夏」
「おはようございます」
 母も昨日の夜とは見違えるほど、凛としている。

「ちょっと今朝は、がんばってみた!」
 母の主張。
 それは朝食だった。
 トーストとポテトサラダ、コーンスープ。
 トーストはやや焦げていたし、他は出来合いのものばかり。
 だが、不器用な母が用意したのかと思うと、少し嬉しかった。

「ありがとう。いただきます」
「はい、いただきます!」
 母は愛用のノートパソコンで、株式市況をチェックしてながら。
 わたしはケーブルテレビのニュースチャンネルを見ながら、食べている。
 今日も世界は動いているな……。

「涼夏」
 突然、声を掛ける母。見ると母は画面から目を離してはいなかった。
「昨日、言ってた彼と付き合うつもりなら……彼を信じなさい」
「え……?」
 何を一体、言い出すのか。
 わたしが思わず漏らした声に、母はこちらを向いた。
「裏切られたと思っても、とにかく信じなさい。良いわね?」
「……はい」
 唖然として、とりあえずはそう答えるしかなかった。
 母は良し、と言ってパソコンを閉じる。
「その彼には、きっと慧眼があるから大丈夫よ」

 慧眼(けいがん)……慧眼とは、物事の本質を見抜く心の目のことだ。
 えげん、とも呼ばれ、仏教では物や心を見極める五眼(ごげん)のひとつとされる。

「慧眼……?」
「それじゃ、行ってきます」
「……」
「返事は?」
「あ。はい。行ってらっしゃい、お母さん」
「うん」
 にっこりと返事をした後、母はやや砕けた調子で。
「あなたはいつも考え過ぎなの。女なら ここぞって時にはバーンと身体ごと! ぶつかっていきなさい!」
 そう言い残して、颯爽と仕事に向かった。
 お母さんらしいな、そう思った。



「あらあら、朝からステキな甘ぁい香りね。おはよう」
「おはよう、母さん」
 昨日の雨とうって変わって、今日はよく晴れてる。
 梅雨の晴れ間ってヤツだ。

 俺は、今日の早朝からバターや薄力粉と格闘していた。
 昨日、親父を部屋から追い出してから、委員長に何かお礼ができないか色々考えた結論。
 それはクッキーを焼くこと。
 なんかちょっと女子みたいだけど……まあ、俺にできるのはこれくらいだからな。

 俺は前からずっと行ってる、スィーツの店でのバイト経験を活かしてみようと思った。
 もともとはふつうの喫茶店だったんだが、店長がハヤリに乗ろうとスィーツを始めた。
 この店長の読みが当たって、けっこう評判になった。
 メインはケーキ類だけど、クッキーも好評で俺もそれなりにレシピを覚えている。
 それで、さすがにケーキはやりすぎかと思ってクッキーにした。

 チーン! オーブンが鳴る。
 開けてみると、なかなかいい感じだ。
「あら、おいしそ。ひとつちょうだい」
 そう言うが早いか、母さんは焼き上がったばかりのココアクッキーをつまんだ。
「熱っ、あつ!」
 落としそうになる。急いで口に運ぶ母さん。
「口に入れると案外、熱ふないよよえぇ」
 熱くないのよねぇ、と言ったらしい。そのまま母さんは、もぐもぐと食べた。
「あ、おいしいぃ! うん、イケテるよ! ね、これ、例の彼女にあげるの?!」
 ノリが微妙に、ふゆなに似てる。親子だよな。
「うん。昨日、傘借りたしね。そのお礼」
「そぉなんだぁ! おいしいし意外性もあって、絶対ウケるよぉ! うん!」
「おはよー、なんのハナシぃー?」
 髪を下ろしたふゆなが目をこすりながら、半袖パジャマで現れた。
 前のボタンの下のほうが、いくつか外れてヘソが見えてる。だらしねーなー。
「おはよう。パンツ見えてるぞ」
「うっさい!エロバカ!」
 真っ赤になって、急いでパジャマのズボンを引き上げる。
 母さんが皿に移したクッキーを差し出す。
「おはよ、今日はおにいちゃんがクッキーを焼いたのよぉ」
「えー、そんなのできんのー?」
 今にも、“キモいんですけどー”って言いそうな目で俺を見た。
 だが皿に手は伸ばすのだった。
 ひとつ、口に無造作に放り込んだ。
 もぐもぐと味わう。

「……ふーん。マズくは、ないね」
 と言いながら、もう一度、皿に手を伸ばす。
 さっと皿を取り上げる俺。
「あ、ちょっ……」
「これは大事なクッキーだからな。おまえにはたくさんやれん」
「あー、あの人にあげるんだー! やらしー! エロバカー!」
 ええええエロ言うな!べべべ別に下心とかないぞ、純粋に傘のお礼としてだな……
 そう思いながらも焦りまくり、言葉が出ない俺。
「ま、でも今日は許しましょう。おごってくれるって約束したし。じゃ、よろしくねー」
 言いたいことだけ言って、部屋に戻っていく。
 まったく……朝から疲れさせるヤツだ。

「これ、ちょうどイイわよぉ」
 母さんがどこからか、ラッピングによさそうなものを色々持ってきた。
 だいたいどこの家庭でもお母さんというのは、なぜかそういうものをいくつも秘蔵している。
「油が箱に染みないように、このクッキングペーパーを入れてから……」
 母さんが嬉々として指示を出す。俺は言われるがまま、作業する。
 なんせ、店じゃ作るばっかでラッピングはやんないからな。

 ちょっと凝ったレースのクッキングペーパー。
 それをコーティングされた艶のある黒い箱に入れた。
 そこにクッキーを入れ、そして楕円形の茶色いシールで閉じた。

 包装紙を敷く。赤く繊維の荒い、網のような和紙だ。
 黒い箱をその赤い和紙で包み、上を軽くねじる。
 そこを細い金色のリボンで、チョウチョに結んで完成。

「おお、なんか大人っぽい色合いだなぁ」
「なかなかオシャレでしょ」
「うん、委員長にはとても合ってる気がする。いいね」
「へー、あの人、イーンチョーだったんだ」
 どうにも漢字でしゃべっているようには聞こえない、ふゆなの声がした。
 身支度を整え終わったようだ。
「昨日のバカ歌は、そーゆーことだったんだねぇ♪」
 く、にやにやしやがって。
 イヤミのひとつでも言ってやらないと気が済まない。
 いつもの高い位置のポニーテールが今日はなおさら、高い位置にあるように見えた。
「今日のおまえは、いつもと違うな」
「は?なに言ってんの」
「何というか、高貴な感じがする」
「ヘンなもの食べた?」
「いや、そんなことはない」
「じゃ、なんなのよ?」
「今日のおまえは……」
「おまえは?」
「バカ殿みたいだぬぁッ?!」
 奇妙な音が首から出ると同時に、俺の脳が振動した。
 ふゆなの見事なブーメランフックが、俺のアゴを右から左に打ち抜いたのだ。
 ガックリと膝から崩れ落ちる。

「立てぇ! 立つのよぉ! あき君!」
 カンカンカンカーン!
 テンカウント! テンカウントです!
 へ、へへ……母さん、俺はまっ白な灰になっちまったぜ……


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